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幕末の志士であり須佐回天軍の生き残り anchor.png Edit

(1847〜1929)
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津田常名(つだつねな)は、幕末の須佐に生まれ、維新胎動の時代を駆けた志士の一人です。 須佐回天軍の生き証人として、その記録を残し、須佐の郷土史をこれほど研究した人物は、他にいないのではないかと思うほど、多数の著書が物語っています。

著書、「須佐津考」は、須佐が国指定名勝及び天然記念物となる時、内務省に送る申請書類に添付されたものの一つでもある。
その内容は、時代を経て近年日の目を見ることとなり、当時としては驚愕する内容が多く、古代への推察においては太古茫々として誰も理解できない、ただの異説として長く扱われてきた。

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著書 anchor.png Edit

主なもの「産土神社考」「天則百首」「諸職祖神略記」「佐江史蹟案内」「佐江管見」「須佐津考」「大谷樸助回天軍実記」「本教神理大要」・・・

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津田常名の年表 anchor.png Edit

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誕生〜少年期 anchor.png Edit

弘化4年(1847)12月19日 須佐村に生まれる。
父は潤塀常堅といい、領主益田氏の家臣であった。父は萩の益田氏邸で勤務中であった が、病気のため常名が誕生してから十日目、帰村してから 僅か十五日目にこの世を去った。これにより専ら母の手一つで養育。幼名は百合槌。

嘉永6年(1853) 七歳の時、伯父に当たる有田信平の習字場に通った。

安政3年(1856)正月 十歳の頃から波田与市右衛門の塾に通って習字と素読の勉強をした。

十四歳の万延元年(1860) 育英館に入学を許され、初めて武士としての文武修行にはげんだ。幼時松下村塾との交流生の一人である山田顕義 に句読を学んだといわれる。

翌文久元年(1861)  たまたま領主益田親施が領地須佐に帰ったとき、育英館生の中で文武精勤優秀の者、20余名を選び出したが、常名もその中に加わることができた。

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成人・青年期 anchor.png Edit


翌文久2年 (1862)正月 16歳であったが領主益田家の侍御を命ぜられ君側に侍することになり、特に以後は名を公輔と改むべく命ぜられた。

文久3年(1863) 17歳、この頃から国事多難な時に向う。

6月1日 領主に従って下関に行き攘夷戦に遭遇した。この月末主人に従って京都に上った。

下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた、前後二回にわたる武力衝突事件である。馬関戦争(ばかんせんそう)とも言う。

間もなく8月18日 暁になると突如として  従来長州藩が警備していた境町御門の解除の変が起った。協議の結果、三条実美公以下、七卿を奉じて京都を出発した。領主親施も帰国したのでそれに従った。

元治元年(1864) 18歳の時、京都に上ったが7月19日になると有名な禁門の変が起った。常名も長州軍として戦って破れ帰国した。長州ではこの 敗戦を境として、今まで静まっていた穏健派(俗論派)が  急に勢を得、藩政の主導権を握り、須佐村も二派に分れたが次第に俗論派が実権を握るようになった。 常名は小国融蔵・大谷樸助等の勤皇正義派に賛同して、徳山幽囚の主人を奪い返そうとしたが俗論派の奸策に妨げられた。邑政堂吏員は俗論派と共謀して、小国、大谷、津田等に自宅謹慎、 面会禁止の旨を命じた。

禁門の変(きんもんのへん)は、1864年8月20日(元治元年7月19日に、京都で起きた事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれる。

慶応元年正月二十四日 大谷樸助、河上範三らと謀り禁をおかして諸隊の義挙にくみして亡君の遺志を継ごうとする同志9名を集めて山口に達し、諸隊と気脈を通じ帰郷した。 直ちに心光寺に入って、回天軍を組織して志士の団結をはかった。けれども反対党の方の勢力が強大になって回天軍の方から北強団に走る者も出て来た。

2月28日 邑政堂は大谷、河上、常名の3名を回天軍の頭首とみなし呼び出し、「汝ら三名は益田家に対する反逆者なれば、各々親族預けとする」と宣言された。 その後一室に幽閉し日夜監視を怠らなかった。同月30日幼君の君命といつわり大谷、河上に屠腹を宣言し、同時に常名に対しては入牢の宣告があった。 常名に 対して同罪であるが 未丁年のため死一等を減じたためである。

3月2日 夕方、萩干城隊幹部の国貞直人(のち愛知県知事)外三名が回天軍応援のために須佐にやって来た、大谷、河上二氏の屠服に一歩おくれ、 忠烈二氏を救い得なかったことを残念がった。常名は松原仁蔵の宅に幽囚されておったが直ちに解放するよう命じ縛を解かれた。
 
3月7日 国貞氏一行に伴われて、海路で萩へ着、 堀内の干城隊本営に至った。小国融蔵ら同志も解放され、今後の運動方針等の計画をたて干城隊の後援も約束された。回天隊再興の許可も得ることができたが須佐では依然として俗論派の勢力が強く回天軍の活動は困難であった。そのため村外に出て奇兵隊に入隊する者が相続き47名に達した

7月 奇兵隊を中心に本藩での急進派(正義派)の勢力は強まり、須佐の俗論派の巨頭及び邑政堂の重職にある者10人は、流刑、隠居、逼塞等の処罰が命ぜられた。 この状態の中で須佐村中の正気は再び燃えあがり、勤皇論が高まった。

慶応2年6月 四境の戦役が起り、常名等の奇兵隊は、豊前国小倉口に向って進軍した。可成りの苦戦の末に勝利を収める事が出来た。常名は斥候等の重責を果たし慶応三年正月帰省。 帰休中に邑政堂から慰労の沙汰があった。
 

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、1860年代に、江戸幕府と長州藩の間で2次にわたって行われた戦いである。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、征長の役、長州戦争、長州側では四境戦争などとも呼ばれる。

慶応3年3月病気療養のため帰郷し病気の間、皇学を独修した。

明治元年(1868)戌辰北征の役(越後奥羽方面)に参戦各地に転戦しその間密使として重責を果たす等大きな働きがあった。戦いが勝利に終って10月庄 内を出発し京都に凱旋した。
 

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が薩長土肥の軍事力を用いて、親江戸幕府勢力(佐幕派)を一掃した日本の内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。

明治元年11月 帰省賜暇の際、益田家の許可を得、三蔭山に招魂場を創設した。後官祭招魂場となり、常名はその受持神官を命ぜられた。

明治2年 より一年間、隊務免除の暇を乞い自費で京都皇学所に入った

皇学所(こうがくしょ)・漢学所(かんがくしょ)は、王政復古直後に明治政府によって京都に設置された高等教育機関。

明治3年正月 長州藩内で有名な脱隊の変が起こった

脱隊騒動:1870年初めに奇兵隊など長州藩諸隊が起こした反乱事件。前年長州藩が諸隊を解散し洋式常備軍への編制替えに着手したが,諸隊への処遇や家禄削減などによる不満が,この兵制改革で爆発。

その際、脱隊兵中に可成りの須佐人がおり、元、回天軍の同志であった者もあり説得に当るので攻撃を待ってほしいと要望したが期限ぎれのため 聞き入れられず、遂に武力制圧されてしまった。常名はこの事件後感ずる所があって除隊を乞い帰郷した。

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激動の幕末を超えて・・・ anchor.png Edit


・・・帰郷後三年間、飲酒喫煙を禁じて勉学に専念。
明治5年2月 育英館に在寓し、坂上忠助に従って漢学を修めた。
明治七年、須佐の自宅に帰った。
明治十二年教導職試補の任命
明治十四年、須佐村村会議員に選ばれ、更に村会議長に当選。
明治十六年、内務省から権少講義を拝命
明治二十二年権少教正に昇級
大正三年権大教正に昇進
昭和四年九月十一日、老衰のため没す。84歳。

(出典=須佐町教育委員会刊「幕末志士の学び舎 須佐育英館」)


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津田常名の人物像 anchor.png Edit

津田常名なる人物はどんな人?  須佐図書館に、「津田常名伝記」という本があります。貸し出し禁止ですが、是非、ご覧になってみてください。
以下、文中から抜粋したものです。

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津田常名伝記 anchor.png Edit

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常名翁の追憶 anchor.png Edit

                八十一老 乃美退助記

私が初めて翁と出会ったのは、日本海を吹き渡る寒風が高山おろしとなって、
佐江湾に大雪を降らせていた大正六年の大晦日早暁のことである。

私は十日程 前官報により合格(弁護士試験)を確認し、
取るものも取りあえず東京を出発帰郷し、萩にある父祖と先師の墓参をし、
第一関門通過の報告ををし、吉部に ある妹の墓参をもすませた。

当時二十四才前途の光明に胸はづませた私は、
血気に任せ十二月三十日午前吉部を出立、
雪積る奥阿武の高佐から弥菖の雪山道 を踏みしだき、
夜に入り寒月を背に金山谷を下り、辛くも夜半須佐海蔵庵津田家に辿り着き、
雪中強行の旅の疲れを休めた。

その暁方のことである。
吹雪 たたく雨戸の外に水浴びの気配があり、続いて柏手の音に目を覚まされ、
不審に思い垣間見ると、吹き荒ぶ雪中に裸身敬しく天を拝する翁の姿を見て、
厳粛身の引繁る思いをした。

しかもその半時後には、七十才の翁が九十三老母の前に両手をつかえ、
虔ましい朝の挨拶に続いて、和やかな会話の交わされる状景に接し、
浄く正しく美しさにほほえましい感動を覚えたものである。

私の幼少時明治三十年代の前半には、萩でも俗に天保翁と呼ばれた士族の老人中に、
威儀を張り堅くるしい態度を持する人を見受けたが、
明治も四十年代から大正になると、世情も人心も著しく変化した。

昔日の如き挙動態度を持する人が極めて稀になった折柄、清純にして無垢、
聖者の如く行動される翁と出会ったことは、
無上の悦であり珍重措く能わぬものがあった。

大正七年元旦高山に輝く朝日は、
雪に映えて美しく天地安穏、翁は早朝から潔斎神に奉仕されていた。
私は四方拝新禧を頌えると共に、爾後の方針につき考慮を重ね、
特に旧年末に与えられた資格により、近く登録の上在野法曹として、
社会正義の実現、人権擁護の使命に挺身し得る希望に胸ふくらませ、
その準備のため正月三日須佐出発萩に立寄り、五日大阪に向う予定をたてた。
二日午後翁の書斎に行き、決意を告げ暇乞いをした。

翁は私の前途を祝福し、大に為すあるべく励まされて後、
恰度よい機会である頼まれて欲しいと前置し、 書庫から軸物一巻を取出し、
これは青年時代、祖国日本につき存立の由来と経過を確認すべく、
古事記その他ひろく古文書を渉猟し、探究調査を重ねた結果、
歴代天皇の御名、御在位年譜、諡号等を知り得て、之を記録し軸にしたものである。
明治天皇の御字今上帝として御在任中であるため、先帝孝明天皇の記録に止め置いた。

今や明治天皇崩御後六年を経過し、自分も老衰を加えた。
この 際その御事蹟を記入したいが、老年に及んで楷書の文字に馴染まぬこととなった。

事にして若き恰好の書き手を得た。この軸に入筆して貰いたいとの申出を 受けた。
思いがけぬ事で私は辞退したが、翁は輝かしい明治天皇の事蹟が未記入であり、
ぜひ充実しておきたいと重ねて要請された。

私は記録の内容を通覧し、翁が青 年時代から名利栄達の私事を離れ、
皇国日本の古く長い歴史にいどみ、調査探究された成果を纒めたものであり、
一部補筆の手伝は当然のこと、又光栄とも思い之に応じた。

翁の口授によりその軸に丹誠を籠め、明治天皇の諡号、年譜、睦仁の御名を清書した。
出来栄え香しからず、内心忸怩たるものがあったが、 翁は結構であると寛容された。

後日回顧してみると、当時未熟で血気に逸る一面、辞むことに勇気を欠き、
拙い筆蹟を残すに至り面映ゆい限りである。
今少 し慎重を期したら翁は長寿であり、他に良法もあったであろうと悔まれた。

 又翁が営々調査の苦労を積み、珍重の軸物作成の業をなし遂げたのは、
私と同年層の青年時代のことに属し、驚異に直する偉業は、翁が若者の通有する名利と、
欲望を離れ之に煩わされることなく、専心一意真実の路究に精進された成果であって、
その純真さと勇気は実に素晴しく、特に翁の性情の浄く美しかったことは、正に珍重すべく尊敬の念を禁じ得ないものである。

翁の挙措は平静淡々、他に対して何ものをも求めず謙譲であり、
温厚篤実にして君子の風格あり、修身の御手本の如くであった。
外面的に逸話めいた行動 には接し得なかった。

しかし内面的には、自己の心情において、浄く美しく、従ってその身を持するに強く厳粛、襟を正させるものがあり、他の追随を許さ ない非凡の人であったと憶う。

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日常生活 anchor.png Edit

  • 翁はその母堂に対して奉養すること、まことに到れり尽せりで、これには誰 人も感動せぬものはなかった。母堂は九十五才の高齢に到る寿を保たれたが、その子たる翁も亦七十才以上の老翁である。しかもあたかも幼児が慈母に対す るが如く、よそ目にもうらやましいほど真情溢れるものがあった。ほとんど毎ヽ 日のようにあんまして上げた。母堂は晩年目がうすくなったが、翁は朝晩の挨拶は欠かした事がなかった。また食事の時は母より先に筈をとる事はなかっ た。
  • 礼儀作法がまことにやかましく、挨拶の仕方、口上なども厳格で、少しの不作法も許さなかった。他家から使い人が来た時は、その主人が来た時と同様に、 玄関まで出て、ていねいに見送る習慣であった。
  • 毎日朝晩の神事はもとより、正月又は春秋の皇霊祭の神事は、必ず自ら行い、灯心(とうしん) の灯りをとぼして、謹厳に行ったが、それは晩年までつづき、 変らなかった。
  • いつも端然と、書斎の机の前に正座しており、査問は横臥した姿を、ほとん ど見た事がない程であった。机に向っていつも、読むか書くかの生活で、ほとんど読書に日を過ごすという風であった。冬は火鉢に手をかぎしたが、それも小さな炭火であった。従って読破したと思われる蔵書の数もすばらしいもので、 今も土蔵の中に蔵してあるが、すべて和学、漢学の書物である。
  • 毎朝冷水をかぶる習慣が永くつづいたが、晩年は冷水摩擦にかえた。又外庭 に出て、我流の体操を毎日行ったが、トントンとび上る姿をよく見た。
  • 寡言で無駄口をせぬ方であったが、来客者があれば、愛想よく打ちとけて話 した。
  • 近所に旅館が建ち、命名を頼まれた時、大喜楼と名づけた事があった。
  • 飲食物の分量は厳重に守り、量を過ごすことはなかった。ずい分粗食と思われる位、質素であったが、いかにも楽しく美味そうに、よく噛んで食べていた。
    毎食飯二杯を定めとし、それを破る事はなかった。毎夜食に添う晩酌一合が唯一の楽しみであった。しかし一合の上は少量でも越 すことはなかった。
    飲食の制限を守った事が、長寿を保たれた大きを原因だろうと思う。


    以上は近親者数氏より聴き取った、翁の日常生活の一端である。
    よって翁の生活を想う。
    図書を左右にして一室に坐し、読書三昧にふけり、時には和歌の構想に頭を傾ける。
    又折にふれては後進者数名を前にして、古神道を説いて後輩を導かれて倦まず、温雅なるその風丯を想見し得る。
    要するに古 武士の風格を備えたとは、まさに翁のごとき人を指すのであろうと思う。
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最終更新: 2009-12-15 (火) 08:27:48 (JST) (2925d) by ikamikuriya


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