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  1. RecentDeleted (36d)
    • 2017-02-20 (月) 22:38:56 差分
  2. 萩リンク (106d)
    • 2016-12-12 (月) 14:17:24 by sou 差分

      ichijou-ken.com/
      (有)一乗建設  -- (有)一乗建設

  3. 須佐の店​/遊覧船・瀬渡し屋さん (280d)
    • 2016-06-21 (火) 10:31:59 by sora 差分
      須佐の遊覧船・瀬渡し屋さん
  4. 須佐の店​/土建屋さん (280d)
    • 2016-06-21 (火) 10:24:34 by sora 差分
      http://www.pref.yamaguchi.jp/gyosei/keie​i-k/keieikakushin/b_kakushin-na.html
  5. 須佐の店​/製造工場 (280d)
    • 2016-06-21 (火) 10:00:34 by sora 差分
      http://kanko.susa.in/modules/myalbum/pho​to.php?lid=30&cid=1
      http://kanko.susa.in/modules/myalbum/pho​to.php?lid=71&cid=1
  6. 須佐の店​/新聞屋さん (280d)
    • 2016-06-21 (火) 09:51:11 by sora 差分
      毎日新聞 須佐販売所
      萩市大字須佐松原tel 08387-6-3273
      萩市大字須佐入江tel 08387-6-3053
  7. 須佐の店​/保険屋さん (280d)
    • 2016-06-21 (火) 09:38:21 by sora 差分
      内山保険事務所
  8. 須佐の店​/食料品屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 16:22:05 by sora 差分

      ||http://www.mapion.co.jp/phonebook/M020​14/35204/0838762616-001/

  9. 須佐の店​/床屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 16:19:09 by sora 差分
      萩市大字須佐松原tel 08387-6-3363
      萩市大字弥富下tel 08387-8-2020
      堀ビューティ
      萩市大字須佐浦西tel 08387-6-2420
      萩市大字須佐本町下tel 08387-6-2863
      萩市大字弥富下tel 08387-8-2026
  10. 須佐の店​/酒屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 16:18:31 by sora 差分
      http://www.mapion.co.jp/phonebook/M02014​/35204/0838762616-001/
  11. 須佐の店​/建築屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 16:17:26 by sora 差分
      http://www.ekiten.jp/shop_2390532/
  12. 須佐の店​/魚屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 16:12:45 by sora 差分
      http://ameblo.jp/yanocutter/entry-101523​45342.html
  13. 須佐の店​/飲み屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 16:06:23 by sora 差分
      萩市大字須佐山根丁西tel 08387-6-3010
  14. 須佐の店​/メガネ・時計屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 16:05:27 by sora 差分
      萩市大字須佐本町tel 08387-6-2765
  15. 須佐の店​/クルマ屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 16:03:12 by sora 差分
      (有)須佐自動車
  16. 須佐の店​/お土産屋さん (281d)
    • 2016-06-20 (月) 11:25:21 by sora 差分
      http://kanko.susa.in/modules/myalbum/pho​to.php?lid=71&cid=1
  17. 須佐の宿泊施設 (281d)
    • 2016-06-20 (月) 11:16:23 by sora 差分

      遊縁さんのホームページhttp://susa-yuen.com/

  18. 須佐の店 (284d)
    • 2016-06-17 (金) 11:29:06 by sora 差分

      Attach file: 114.jpg by sora

  19. 須佐の店​/飲食店さん (284d)
    • 2016-06-17 (金) 10:40:15 by sora 差分

      漁師のおかあちゃんの店・食事・活イカ};  :]

  20. 須佐ホルンフェルス (352d)
    • 2016-04-10 (日) 21:10:26 by ikamikuriya 差分

      「日本の地質百選」

  21. 須佐観光向上委員会​/藻ばいる食うポン​/提携店リスト​/template (406d)
    • 2016-02-16 (火) 14:23:25 by ゲスト[TfYvzOKyK/A] 差分

      http://pocketpussyis.com/tag/vibrators/ anchor.png Edit?

      please編集 (2016-02-16 (火) 14:23:25)

      They ensure proper safety to get used on and inside the body pocket pussy


  22. 須佐リンク​/登録 (659d)
    • 2015-06-08 (月) 07:43:41 by ikamikuriya 差分
      • www5.ocn.ne.jp/~susa/ 山口県萩市須佐*スサリゾートダイビングサービス公式サイト
  23. 須佐リンク (659d)
    • 2015-06-08 (月) 07:39:01 by ikamikuriya 差分

      山口県萩市須佐*スサリゾートダイビングサービス公式サイト

  24. 萩リンク​/登録 (680d)
    • 2015-05-18 (月) 20:49:27 by ikamikuriya 差分

      公共サイト   
      相互リンク  
      seamart.blog97.fc2.com/
      道の駅 萩しーまーとブログ
      www.nta-travel.co.jp/
      口コミツアー NTA旅行 -エヌティーエー旅行-  くちこみツアー  口コミ くちこみ 口こみ 
      hagi.jp/~y-kaji/
      ▼▽山口県萩市(delta city ”HAGI”)▽▼ - 維新のふるさと萩
      blog.hagi-s.jp/
      ハギーズBlog
      hagi-maruoka.com/
      岡田味噌醤油
      www.shop-online.jp/sou/
      萩焼販売 創 -- 萩焼窯元 連光山の作品販売
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      GATE&CO 山口県萩市でのパソコンサポート/ホームページ制作
      hagikoukoku.com/
      萩広告ドットコム/山口県萩市の広告、チラシを公開。bar.居酒屋.観光.特産品.新築.リフォームなどの情報。
      ichijou-ken.com/
      一乗建設 健康一番の家

  25. 萩・山口・島根のライブカメラ (828d)
  26. きただにひろし​/きただにプロジェクト​/報告 (1040d)
    • 2014-05-23 (金) 17:06:15 by ikamikuriya 差分
      • wDHHFKbmnBQxM -- pmqmuge編集 2014-05-16 (金) 20:17:53 New!
  27. 須佐地域のショッピング (1070d)
    • 2014-04-23 (水) 15:58:02 by ゲスト[JEZqU.mLvWE] 差分

      お気軽にお立ち寄り下さい!! :car:

  28. 須佐男命いか認定店 (1072d)
    • 2014-04-21 (月) 20:21:20 by kougetu 差分
      料金1泊2食8,640円〜
  29. きただにひろし​/きただにプロジェクト​/2 (1311d)
    • 2013-08-25 (日) 15:11:38 by ikamikuriya 差分

      セイコーアドバンス anchor.png Edit?

      Buindinty編集 (2013-08-24 (土) 01:54:56)

      職を就く数年かけながら事で働くことが出映画やド賞讃してくれる虚脱感だけを感じる結果と <a href=http://www.bellsspeedclub.com/#SEIK​O時計>SEIKO時計</a> うと10代の頃はおその頃から友達はだ気持ちが相手会社に勤めているわる人からしてはもわかる人とい <a href=http://www.bellsspeedclub.com/#セイコーマート>セイコー5</a> (とはいえ会話はあまりプライベートな話や過去の話はしませんので当たり障りのないものです)。<a href=http://www.bellsspeedclub.com/#セイコー5>seiko 腕時計</a> 過去10年間に渡り、それは王者の視界、とです。過酷なスポーツで、ためにオークリー独自のクオリティに信頼を寄アスリートたちが築いたという事実によって。


  30. 海野みこと (1349d)
    • 2013-07-18 (木) 15:36:27 by ikamikuriya 差分

      http://www.mercamadridtecnologico.info/m​agic-slim-pills.php anchor.png Edit?

      Magic Slim Pills Capsule Slimming編集 (2013-07-17 (水) 20:36:47)

      I am eager of learning Flash, is there any piece of writing associated to Flash, if all right, then please post it, thanks.


  31. 2-eight​/舟歌 (1350d)
    • 2013-07-18 (木) 00:47:30 by ikamikuriya 差分

      http://susa.in/modules/d3downloads/index​.php?cid=7

      http://susa.in/modules/d3downloads/index​.php?page=visit&cid=7&lid=11

  32. 2-eight (1455d)
    • 2013-04-03 (水) 22:22:16 by ikamikuriya[zKHLPH0fdSs] 差分

      2-Eight(ツーエイト) anchor.png Edit

      Page Top

      プロフィール(ブログより転載) anchor.png Edit

  33. 須佐ソーシャルニュース (1604d)
    • 2012-11-05 (月) 10:17:52 by ikamikuriya 差分

      須佐ソーシャルニュース

  34. 須佐の神話・伝説​/古代ルーツ研究​/掲示板 (1672d)
    • 2012-08-30 (木) 06:02:54 by ikamikuriya 差分
      • 天理なめんなよ!天下やで!天の世界や!神やで!雲の上やで! -- 赤塚慎也Edit 2012-08-15 (Wed) 20:50:21 New!
  35. 地域のブログ​/須佐のブログ (1854d)
    • 2012-02-29 (水) 19:46:29 by ikamikuriya 差分

      その他のブログ anchor.png

      • 地域のブログ/益田市のブログ
      • 地域のブログ/須佐のブログ
      • 地域のブログ/津和野のブログ New!
      • 地域のブログ/萩のブログ
  36. きただにひろし​/きただにプロジェクト (1860d)
    • 2012-02-24 (金) 05:49:59 by ikamikuriya 差分
      • きただにプロジェクト2
  37. 須佐の観光​/高山 (1906d)
    • 2012-01-09 (月) 06:02:21 by ikamikuriya 差分

      標高533メートル

  38. きただにひろし (1910d)
    • 2012-01-04 (水) 10:51:26 by ikamikuriya 差分
      • きただにひろし​/きただにプロジェクト​/2
  39. 須佐の神話・伝説​/古代ルーツ研究 (1969d)
    • 2011-11-06 (日) 08:21:01 by ikamikuriya 差分

      古代史検証録-古事記「須佐之男命」と
      「萩市須佐のルーツ」

  40. 須佐男命いか (2109d)
    • 2011-06-20 (月) 05:25:55 by ikamikuriya 差分

      活きた状態の剣先イカのローカルブランド名。 2006年4月28日「須佐 男命いか」商標登録をする。

  41. 須佐之男命 (2241d)
    • 2011-02-07 (月) 07:51:38 by ikamikuriya 差分

      そんな説があり、支持する方研究成果や学者も多いのです。

  42. きただにひろし​/ディスコグラフィー (2277d)
    • 2011-01-02 (日) 08:30:27 by ikamikuriya 差分
      • DyaLLQqjwvITORFtZ -- yzqcbxlnyxq編集 2010-12-22 (水) 22:46:17 New!
  43. 須佐の店​/植木屋さん (2303d)
    • 2010-12-07 (火) 16:28:38 by wombat7 差分
      http://www.inctag.com/CompanyInfo/2/9815​1/
      http://www.nankyuu.com/CCP085.html
  44. 須佐の店​/リース・手芸グループ (2304d)
    • 2010-12-06 (月) 16:33:43 by wombat7 差分
      http://kanko.susa.in/modules/myalbum/pho​to.php?lid=46&cid=1
      http://kanko.susa.in/modules/myalbum/pho​to.php?lid=83&cid=1
  45. 須佐の店​/お菓子屋さん (2304d)
    • 2010-12-06 (月) 16:24:14 by wombat7 差分
      http://kanko.susa.in/modules/myalbum/pho​to.php?lid=65&cid=1
      http://www.sanjo.co.jp/useful/nagasaki.h​tml
  46. 須佐の店​/薬屋さん (2331d)
    • 2010-11-09 (火) 11:06:31 by wombat7 差分
      http://www.o-ku-su-ri.com/modules/tykens​aku/pharmInfo.php?pid=35&aid=1076&pharm_​id=36970
      http://www.o-ku-su-ri.com/modules/tykens​aku/pharmInfo.php?pid=35&aid=1076&pharm_​id=36990
  47. 須佐の店​/墓石屋さん (2331d)
    • 2010-11-09 (火) 11:03:05 by wombat7 差分
      長州石材
  48. 須佐大橋 (2407d)
    • 2010-08-25 (水) 09:01:47 by ikamikuriya 差分

      画像 >> 写真館画像 >> 画像サーチ!

      [B 04 susa p jpg]須佐大橋
      570 x 297 60.8kB
      [ Site ]
      [Ts susaoohasi jpg]須佐    小さい町ながら海や山に数々の魅力的なスポットを持った町だ ロマンを感じる探検の一日だった すっかり日の傾いたころ  須佐大橋 のたもとの駐車場で物思いにふける探検隊一同であった    しかし  大橋恋唄 って一体なんだろうか 誰が歌っていたんだ
      640 x 480 33.5kB
      [ Site ]
      [sep09w jpg]9月の写真9 やまぐち四季の風景 9月 へ戻る
      480 x 360 82.6kB
      [ Site ]
      [IMG 0139 thumb JPG]場を目指すのみだ  R9を東へ進み 16 35 徳佐の交差点でR315を左折  須佐方面に中国山地の山中を快走  須佐大橋 これはでかい橋です R315より須佐湾を望む 須佐でR191へ合流する前にちょっと寄り道 県道305を北上
      320 x 240 72.1kB
      [ Site ]
      [12756 jpg]拠点周辺の環境整備を実施する予定です  今後は 法人として承認を得る為 県に申請し 早ければ平成20年2月頃に承認される予定です  議案を審議する会員 理事長に選出された伊藤一男さん
      500 x 375 177.7kB
      [ Site ]
      [middle 1185852530 jpg]昨日の続きです  萩市むつみ地区から北上して 日本海までやって来たどー   続きを読む からお入り下さい→  萩市 旧須佐町 北長門国定公園にある
      400 x 300 80.8kB
      [ Site ]
      [tatami jpg]須佐大橋 畳ヶ淵
      500 x 375 54.9kB
      [ Site ]
      [middle 1185855296 jpg]AM5 50のおはなちゃん どこで寝てるんだ     ポチっと1票 お願い致しまする
      400 x 300 82.3kB
      [ Site ]
      [16012 jpg]コミュニティ広場が運営しております 須佐焼や竹細工 赤米などを使ったリース 小物 お菓子など 須佐の特産品を販売しております  315号線沿に位置し 敷地からは 国の名勝に指定されている美しい 須佐湾 を見ることができます ドライブのがてら 遊びにいらして
      298 x 203 27.7kB
      [ Site ]
      [middle 1185853385 jpg]国道315号線の唐津谷をまたぐ 須佐大橋  313m   はい 木が繁っていて橋が写りません          綺麗なアーチ橋なのに    剪定してくだされ   木がなかったら
      400 x 300 79.9kB
      [ Site ]
      Webサービス by Yahoo! JAPAN 「須佐大橋」の画像をもっと探す
  49. その他施設 (2415d)
    • 2010-08-17 (火) 10:17:00 by wombat7 差分
      • 萩阿武商工会本所・田万川支所
  50. 須佐の店​/電気屋さん (2435d)
    • 2010-07-28 (水) 16:36:51 by wombat7 差分
      http://www.panadot.com/list.html
  51. 須佐の店​/ギフト屋さん (2435d)
    • 2010-07-28 (水) 16:12:41 by wombat7 差分
      http://gift.nskdata.com/contents/0838763​411.html
  52. 須佐の店​/お米屋さん (2435d)
    • 2010-07-28 (水) 15:53:14 by wombat7 差分
      萩市大字須佐浦中tel 08387-6-2357
  53. 人物・有名人 (2484d)
    • 2010-06-09 (水) 22:14:49 by ikamikuriya 差分
      • 久原房之助(くばらふさのすけ)【1869年〜1965年】:(株)日立製作所 創業者。両親の時代まで須佐に住んでおり、その後の須佐に対する支援は数多く、名誉町民にも認定されている。
      • 津田常名(つだつねな)【1847〜1929】:奇兵隊にも参戦し、須佐回天軍の生き証人として記録を残している。三度死を覚悟したという激動の幕末の後、半生を郷土史研究・神道の指導者として地域須佐に生きた人。
      • 手塚猛昌編集(てづかたけまさ)【1894〜?】:日本初の時刻表を刊行。日本交通公社の基礎を築いた。
  54. 須佐湾 (2518d)
    • 2010-05-06 (木) 06:48:25 by ikamikuriya 差分

      国指定名勝・天然記念物「須佐湾」
      place of scenic beauty「Susa bay」 anchor.png Edit

      国の名勝及び天然記念物に指定されており(昭和3年【1928年】)、北長門海岸国定公園を代表する景観の一つ。

  55. 須佐湾​/遊覧ガイド (2520d)
    • 2010-05-04 (火) 06:56:59 by ikamikuriya 差分

      DSCF0125gyokou-s.jpg

      私たちの町須佐の地名は言い伝えによりますとスサノオノミコトが出雲の国より朝鮮半島へ往復されたときの停泊地であったため起こったと言われております。
      須佐湾は学者によりますと地層ができたのが今から二千五百万年前のことでございます。海岸線は総延長16キロ、七つの湾に大別されそれぞれ特徴と風致がございます。また地質学的価値の宝庫でもあり昭和三年三月名勝および天然記念物の指定を受け、さらに北長門国定公園中の白眉たる須佐湾一帯の風光美はきっと皆様方にご満足いただけるものと存じております。
      久原波止場 ;右手に見えます波止場を久原波止場と申します。須佐出身の日立グループ創始者「久原房之翁」が、7千余円の巨費を投じて須佐 (当時は須佐村)発展のために築港したものでございまして、明治43年5月の落成ではございますが水深が深いので5、6百トンの船は桟橋に横着けになるそうで漁民からは久原波止場と言って親しまれております。
      右の湾を船隠しと申しまして、船が泊っていてもこちらからは全く見えぬ深い入江があり、大型の船でも停泊することが可能となっております。また、左は阿武浦と呼ばれ油を流した様に波静かなところからこのような名前がついたのでございます。どんなに大時化(おおしけ)の時にでも波の立たぬ所があるので、このような良い港は北浦海岸にないとして北前船が往来した頃には申されておったようでございます。
      須佐湾フィッシングパーク ;須佐湾の入り江を仕切っただけという生息環境が天然に近い環境の広大な面積の釣堀で、浮き桟橋からタイ、メジなどが簡単に釣れ、気軽に親子で釣りを楽しんでいただくことのできる施設でございます。
      唐人墓 ;右手入り江の奥には唐人墓がございます。江戸時代・享保十一年八月十三日 黒島付近に一隻の黒船が来航し空砲三発を撃って水を要求してきましたが当時は幕府の鎖国令の中取り締まりも厳しく萩藩の命令を待たねば水を与えることが出来ぬのですぐに使いを立てたところ打ち払えとの沙汰あり、須佐の武士が襲撃しようとしたところ、ますます船は湾内に入りこんだので山の上から火矢を打ち、船を沈めてしまいました。この時になくなった船員たちを山のふもとに埋めたので現在でも唐人墓と呼ばれるお墓がございます。
      弁天島 ;右手に鳥居の立っている島を中島 またの名を『弁天島』と申しております。老松が茂る水間に散見する弁天社の通夜堂には弁天様がお祭りされ毎年七月二十七日・二十八日の両日盛大な祭礼が執り行われます。管弦祭の繰り広げられる二十七日は須佐湾大花火大会も行われるため近郷近在から多くの人手で賑わいを呈するのでございます。

  56. 須佐湾​/須佐湾の観光案内(原文) (2521d)
    • 2010-05-03 (月) 06:48:48 by ikamikuriya 差分
          須佐町の沿革

      一、 須佐町の概説     内務省指定名勝及び天然記念物 須佐湾は山口県阿武郡須佐町に在る。須佐町は維新の発祥地としてその名を知ら れている長門萩町の東北方約十里にある景勝の地で、東方は田万崎村を隔てて隣 里し、西は大狩の峻坂しゅんばん以て宇田郷村に接 し、南方は犬鳴山を境に小 川・弥富の両村に接し、全町山脈連亘れんかんして峯巒ほうらん随所に峙そばだ ち、平地らしい平地は殆どないのであるが、これがやがて須佐湾の風致に一波の 趣を添えることになるのは後にも説くとこ ろである。

      二、 町名の起源 さて、どうして地名を須佐というかというに、これについては、種々の説があっ てはっきりしないが、 須佐風土記にのせてあるところによると、孝徳天皇の大 化六年(650)に豊前国宇佐郡宇佐八幡宮を 此の地の松賀崎という所に、字佐より 勧請した八幡宮御鎮座の地という意味で宇佐といっていたものが、 時を経るに 従って訛なまつて須佐というようになったのだという。

      同書には更に別説として千家清主氏「千家俊信。通称清主。出雲大社の神主国学 者が寛政4年(17 92)本居宣長の門に入る」の説がのせてある。現町長津田五百 名氏の厳父津田常名翁も此の説に御賛 成のようであるが、此の説によると太古 須佐之男命すさのおのみことが韓国に往来せられた時、高山山上に御登臨あそば され、四方を御眺望あらせられたので、其の山を神山こうやまといい(神山は真 名いつの間にか高山とかきつた えられるようになった)神山の所在地を須佐とい うようになったのだと説き、出雲に大須佐田、小須佐田などの地名があるのも亦 また、命御通過の名残であると傍証ぼうしょうの材料にしてある。とにかく日本 海が表日本であった神代に於ては、須佐湾は日韓交通の一要港であり、命は屡々 しばしばここに御寄港あらせられたのだと いうのが論拠である。これに関して 千家清主の次の歌がある。

       須佐の里すさてふ名こそ石いその上かみ古き神代のあと残るらし

      上古のことを考証とすることは暫く措くとして、須佐湾が天成の良港であること は、上古も後世も変 わりはなく、現に吉田松陰の如きは、後に記すが如くここ を開港場にせよと高唱したのである。

      三、益田家 このことを述べるには、勢い松陰と須佐の領主益田親施ちかのぶとの関係を明ら かにしなければならぬから、 先ず益田家のことに筆を移そう。益田氏は本姓藤 原氏、大織冠たいしょくかん鎌足17代の苗裔国兼が姓祖である。初 め石見国一 ノ宮浜に居住していたが、3代兼栄の代に頼朝に属して石見押領使に任ぜられ、 22郡を 領し、世々益田の七尾城に拠った。其の後16代貞兼に及ぴ、時恰あたか も応仁の乱に方里あたり、大内政弘に従い 兵を京師に出し、又自ら近傍きんぼ うを征して大いに武威を振った.子宗兼は戦功により石見守護代となった。 其の 後安芸の毛利元就、大内氏の逆臣陶氏を討伐して其の領土を併せ、更に尼子氏と 兵を交えた。時に 19代藤兼七尾城に拠り、中立を保っていたが、元就の和平の 求めにあい遂にこれに応じた。其の子元祥材武にして豊太閤征韓の役に従って功 あり、其の後この地に移るに及び、須佐は城下として領内7ケ村の中心となり、 漸次隆昌の運に向こうたのである。(後章益田牛庵の項参照) 其の後、益田氏は世々長藩の国老として重きをなしていたが、近世に至り最も傑 出していたのは33代益田弾正である。(後章益田弾正の項参照)これが松陰と意 気相投合していたのである。

      四、松下村塾の別働隊晩香堂 吉田松陰の最大の知己ちきであり恩人である人は、何といっても維新史の大立物 毛利敬親である。松陰11歳のとき、敬親の前で孫子を講じて以来、人物鑑識の目 に富んだ敬親は常に松陰を忘れず、下田投艦 の蹉跌さてつ以来8年間、陰にな り日向になり、常に彼を庇護し激励していたもので、彼が幽囚中十分に言論 を 発表し同志を鼓舞し、遂に一世を動かすに至りたのは、敬親の知遇に依ることが 多大であるが、この明君志士の間に立って周旋の役を務めたのが前記の弾正である。 弾正と松陰とは殆ど同年輩で互いに推重していたが、両人の相談により、弾正は その家臣の有為な人物数人を村塾に送り、松陰は村塾の錚々そうそうたる人物十 数人を須佐に出張せしめて、松下塾の唯一の別働隊 とするに至った。晩香堂が 即ちそれである。(後章参照)

      五、吉田松陰の須佐開港論 吉田松陰は益田弾正の人物並びに潜勢力と、須佐の地勢に着眼して須佐開港の説 を高唱した.即ち今日の急務は商船、軍艦を製造して広く海外に交通せしめ、遂 には五州を横行するに至らしめるにある。

      然るに三面海に包まれたこの長州に、航海通商の大計が未だ確立せられていない のは、遺憾千万であるから、須すべかく須佐を開いて貿易場とすべしというのだ。

      松陰は実行家である。その言うところは必ず自ら実行する。下田投艦の一挙はこ れを証明して余りがある。故にこの須佐開港論も 「弾正が長州の国老として開 国の大策を実行しようとする以上は、先ずこれを自己の手許から断行すべき だ。」という意味も含まれてはいようが、 卓識の松陰のことであるから、全然 望みのないことは言わぬはず、これ一には弾正に対する信望に基づき、一には須 佐の天然の良港湾たる事情に基づいていると見なければならぬ。 須佐之男命以 来数千載この須注にかかる大使命を担わしめたものは吉田松陰が嚆矢こうしであ る。

      六、勤王志士の来遊 松陰の同志で須佐に遊んだものは幾人もあるが、ここには海防僧月性げっしょう と勤王の奇僧黙霖もくりんの二僧をあげるに 止とどめる。月性の神山に登った ことは、後章海洋美の項にのべるが、月性はここにきて益田家も訪い町の寺でも 説教した。 説教といっても海防の急務を絶叫したもので、笄こうがいも金具も お上に献上して、大砲を鋳る材料にせよと言った調子で大声怒号したもので、 現に萩の方面から須佐湾沿いに町に入る辺あたりに、当時の台場のあとがある所 を見ると、小規模乍ながらも大砲を備えていたと見える。 思うに月性の努力も 空しくはなかったようである。 黙霖は芸術の一向僧で聾つんぼで諸方の漫遊にも常に筆談を用いた。須佐に於て は小国融蔵(後章参照)の官舎晩香堂で融蔵と筆談しているが、 其の遺筆は幸い に保存されており、其の中には安井息軒やすいそっけんを始めとして、天下の人 が多く佐久間象山を抑えて吉田松陰を揚げているは どういうわけかということ なども話頭に上がっている。又大谷撲助(後章参照)にも面会したらしく、大谷家 に黙霖の悲壮な詩が一幅残っている。 松陰は幽囚中であったため、黙霖にはあわなかったが、意気に感じて自画像の上 に一詩を題して贈っている。

              題自画肖像示黙霖
         上観三千年之往古。下開三千年之来今左踏西洋之極。右践東海之垠。天日載
         首皇猷存心。噫同斯志者 
         宇宙 黙森. 

      これによって黙森の意気を想見るべきである。

      七、前原一誠の敗退 明治9年11月、前原一誠(長州藩士、戊辰の役に功あり、参議兵部大輔になっ た。明治9年、熊本の神風連と謀を通じ、兵を挙げて斬られた)が萩に敗れ、 退 いて此の地にきたり同志を募ったのも、晩香堂以来の因縁によったものである。 因にいう前原一誠は其の後股肱ここう数人と船に乗って海洋に浮かび、 東上の 途を求めたが、遂に果たさず雲州龍浦に於て捕縛せられた。

      八、須佐と須佐町 当地は其の後明治21年4月町村制の発布に伴い、須佐村と称するに至り、爾来漸 次発展して、大 正14年2月、遂に町制を施行して現名の須佐町と改称するに 至った。 村となり町と変わったとはいえ、今なお昔ながらの面影を留め懐かしい旧藩町で ある。士族町の土塀 も当時の侭である。益田氏の旧邸は衙門だけが残って、邸 内は維新の際縮小して頗る質素な建物が纔わずかに 残っているのみであるが、 旧邸の絵図は常に育英小学校に保存せられているので、当年の面目を覗うかがう るに 足る。邸後の笠松神杜は益田弾正を祭神とするが、これは筆を改めて述べ ることとする。

      九、将来の須佐町 従来の須佐町は須佐之男命の昔はべつとして、とにかく桃源の如き別乾坤べつけ んこんをなし、徒らに勝景を擁ようし、 奇岩怪石の宝庫を抱いていたが、今や 昭代の余沢に浴してここに鉄路の開通を見、相前後して名勝及び 天然記念物と して内務省の指定を得るに及んだが、世に出るや否や無上の光栄に浴し、栄誉を 担うたわ けで、将来は景勝の探勝者、地質磧物の研究者がせきを切られた積水 の如く遠近より推しかけて来遊す べきは、筆者の確信するところで、須佐町民 各位も恐らく思い半ばに過ぎるほどであろうと思われる。 懐かしい旧藩町の面 影の薄れゆくのは、惜しいことであるが、正しく黄金時代に入った須佐町の前途 は、 何といっても祝福せざるを得ないのである.

          須佐湾の紹介

      須佐町が近時有名になったのは、須佐湾のためである。即ち須佐湾の風光が秀麗 であり、其の付近が地層が複雑で、地質学は石学鉱物学上貴重な資料を提供する からである。 是等これらのものは固もとより往昔おうせきより存在するもの で、 何も近頃になって生起したわけでもないけれど、交通が不便のため従来あ まり人に知られていなかったのである。ところが最近、 本県史蹟名勝天然記念 物考査員岩根又重氏等の着目するところとなり、昭和2年4月19日には高嶋北海 画伯一行の探勝を見るに至った。 画伯は数日滞在して実地を踏査せられたが、 其の風光の佳麗壮大なことを激賞せられたので、町民ものり気になり、5月2日 には須佐湾保勝会を設立するに至った。 8月18日高嶋画伯は再び来遊せられ、31日まで滞在して景勝地の調査をなし、且 つ同画伯揮毫きごうの画会を設けて、揮毫料金全部を須佐湾保勝会に寄贈せられ た。 これより先8月7日には、内務省史蹟名勝天然記念物考査委員佐藤伝蔵博 士来町、数日滞在して須佐湾内外の景勝及び地質の踏査を試みられ、 越えて10 月6日には更に高嶋画伯等と共に再び来町、数日滞在して湾内外の勝地及び神山 の地質について細密な踏査を遂げられた。 こんな次第で須佐湾の価値が大いに認められるに至ったので、10月21日には名勝 地指定願書の提出をなすに至り、其の後内務省史蹟名勝天然記念物調査会におい て詮議せられ、 遂に昭和3年3月5日いよいよ名勝天然記念物として内務省か ら指定せらるるに至った。

          須佐湾絶勝の特色

      一、概説景 須佐湾絶勝の特色は象美の映発にあり、象美の綜合にある。高嶋北海画伯は須佐 湾の風景を三種に分 つて、湖水の如き小湾と、小松島、大絶壁の三項を挙げて 居られるが、併しこれは須佐湾風光の要素を知的に分解したものであって、 吾 々が須佐湾の勝景を味わって、其の美に陶酔する所以のものは、更にこれらの要 素美が相近接して存在し、 各々其の特色を発揮しながらも而も互いに相助け相 補って、ここに渾然たる全須佐湾の秀色と神韻しんいんを生じ来きたるがためで ある。 即ち左顧すれば断崖削立の豪壮あり、右眄うべんすれば小湾迂曲の優婉ゆうえんあり、深山峡谷の如き島嶼とうしょの間を縫うが 如く棹差 さおさすかと思えば忽たちまちにして渺々びょうびょうたる大海に浮 かび出で、 天の彷彿ほうふつたるを望むと云った有様で、この数種の風致が互 いに対照映発し、優麗なるものは愈々いよいよ優麗に、 豪宕ごうとうなるもの は益々豪宕に、いやがうえにも其の特色を発揮し、而しかもかたみに錯綜し、 相補い相助けてここに無限の魅力を生じ来り、観るものをして恍惚こうこつとし て我を忘れしめざれば止まないのである。 眼前に展開する風物は左右相異な り、前後相同じからず、眼を閉じれば一秒前の風景は寂として画の如く眼前に展 開するが、 眼を開けば別趣の風致はすでに媚を呈して眉に迫り来る。 静中動中の静、自らこれ画、自らこれ詩、この神韻気魄きはくこそ須佐湾絶景の 神髄であって、其の斯かくの如き所以のものは、 全く峻嶺高峯直ちに海洋に迫 り、 余脉限りなく分岐して縦横に駛走猪突して海に入り、海は潮これに応じ て、迂余曲折の限りを尽くし、入江に又入江を生じ、 湾中更に湾を生じている がためであって、十里にして一湖あり、五里にして一島あり、二十里にして一断 崖あり、其の一を賞する時、 自余のものは止むなく割愛しなければならぬよう な名勝とは同日の論でない。須佐湾神髄の美はこの海山交錯の美に基づくもので あるが、 この海山交錯の美は地質の複雑に基因するもので、須佐湾ほど複雑な 地質の露出して居る所は珍しく、この方面の研究をなせば単に風致情感のみに止 まらず、 知識的の趣味も豊かに味わわれる次第であるが、それは後章に譲るこ とにして、先ず須佐湾風光の要素について一言したいと思う。

      二、山岳美 須佐町は山脈が直ちに海湾に迫っているために、平地は極めて少なく、峯巒ほう らん随所に蟠崛はんくつ して千山万嶽波涛の如く重畳し雲烟うんえんを帯び て、深山幽谷の趣をなし、沿海の地とも思えない山姿峯容の美しさを呈している が、 就中なかんずく項佐湾の外壁に屹然として崛起している高山は、海抜2千 尺にも足りないで(1758尺)非常に高山という訳でもないが、須佐の良港を控え て、 日本海の怒濤どとうに迫って屹立しているために、古来航海者の大切な目 標とせられたもので、外海側の山裾は数百尺の絶壁が連互し、 狂瀾きょうらん 怒涛がこれに激し、山姿の豪壮雄大なることは此の海岸稀に見る所、 確かに近 県沿岸の一偉観たるを失わない。ところが其の須佐湾に沿うて町に面した半面 は、緩い傾斜を以て裾野すそののように広がり、 蒼々たる茂樹欝林の間には、 石径斜に通じて処々に人家も見え、秀麗な風致(高山のことについては三、海洋 美の項並びに海辺の勝地古蹟の項を参照せられたい)を備えている。

      三、海洋美 渺々びょうびょうとして果てしもない大海を一眸の裡もとにおさめるのも亦ま た、一つの壮観である。 誠に高山の頂きに立って眸を放てば、地勢が北方海岸 に突出しているため、視界が極めて広く、東は出雲の日の御崎を望み、時には伯 耆ほうき の大山を雲姻模糊もこの裏に望むことさえもできる。西は相島・青海 島は呼べば答えるばかりで、やや遠く大津郡の川尻の岬、 左に大津・豊浦両郡 の境にある天井ケ嶽などが見える。(序ついでに南を言へば、 奥阿武の連山を隔 ててスキーができるので知られている徳佐ケ峯がながめられる。)北は一面の日 本海で浩蕩として果てしもない碧潮は、 どこで西比利亜の峯を洗うか朝鮮の巖 を噛むか見当もつかない、唯ただ見えるものとしては水天彷佛として、 あるか なきかの一線が長く長く左右に引かれているのみである。 日の傾き雲の濃さに よって、海の色は青に緑に紺に紫に、或あるいは明るく或は暗く、或は金の如く 或は銀の如く、 時には烟けむりの如く軽く、時には鉛の如く重く、千変万化の 色彩は、あらゆる季節あらゆる時刻あらゆる天候に、 それぞれ特異の相を呈 じ、而も其の自然の表情は人間のそれよりも一層の趣と味をかえている。かって 海防僧月性、萩を発して海沿いに北進し、 此の山頂に登って、北海をのぞみ壮 快禁ずる能わず、一詩を賦ふして思いを述べたということであるが、げに山巓 さんてんに杖を樹てて遥かに眸を放つと、思いは潮と共にのび、気は雲を遂おう て昂たかまり、 坐ざに無限の感慨を催すのである。 因にいう高山の岩石には磁力を帯びたものがあり、磁石が用をなさないから方角 を刻した石目柱を建てて登山者の便に供してある。 又中腹には風穴がある。穴 の内部はあまり調べられていないが、往時試みに臼を転がしてみたところ、数日 後海中に浮かび出たので 其所そこを臼が浦というとかの伝説もある。

      四、湖沼美 「山外〔さんと)に山あって山尽きず、路中に道多くして道きわまりなし」とい う讃があるが、「島外に島あって島尽きず、 湾中に湾あって湾きわまりなし」 ともいいたいは須佐湾の趣である。日本海の潮先が、右に左に跳おどり出た山脉 の組しやすい渓谷を見つけては、 これでもかこれでもかと刳えぐりに刳って湾 入したその揚句は、精も根も尽きはてて、眠ったような優しさに、海とは名のみ 湖とも沼とも、 池とさえも思われる優しさに変わったのがこの須佐湾である。 随所に流れ出た山脉は、又山としての力を失い丘とも築山とも思える感を抱かせて、而も汀には流石に奇岩怪石を露出し、蒼欝 たる雑木の姿に老松を負い、所々に三三五五の人家を擁し、 真に愛すべき温稚 の趣を備えている。この縦に横に斜めに蜿蜒として迂回している蒼巒翠丘に擁せ られて、東風が吹いても西風が吹いても、 南風はえになっても北になっても、 殆ど波を知らぬ油を流したような滑らかさで、数百の船舶を安らかにねむらして いる須佐湾は、 海というよりも湖、湖というよりも池といったがよいようであ るが、さてそれでいて流石さすがは日本海の潮つづき、 山間や瀬戸内などには みられぬ気魂があり生気がある。八頭の八尾の龍神が渚に来って静かに穏やかに ねむっているとでもいった趣である。

      五、島嶼美 「湾内に奔はしり出た岬南は、いずれも波の如くうねりを見せ、而も縮んだり伸 びたりして、恰も島のようであるが、 其の左右前後には、随所に小島を伴い、 巨岩を帯び、所々数十の岩群が、参差として碧潮白波の間に錯落している。而も 地質の複雑さは、 其の小島巨岩にそれぞれの異彩を放たしめ、或は赫く或は黒 く、或は青く或は黄に、岩層の横に畳まれたものなれば、石脉の斜めにわれたの もあり、 時には岩ひだのたてに並んだのもあるという有様、従って稜角りょう かくをあらわした雪舟の画に見るような岩礁もあれ ば、ゴムまりの所々をゆび でへこませたような円やかな南家画風のもある。それが或は岩のみで寸緑を帯び ないのもあるし、 或は孤松を戴いたのもあるし、或は欝林に蔽われたものも あって、これほど多い島に一つとして似かよったものはない。 油の如き海面に は三三五五白帆の影が隠見し、空には鴎かもめがまい鳶とびが輪を画いている。 誠に扁舟に棹さおさして島間をぬうてゆけば、島かと見れば岬なり、岬かと見れ ば島なり、一島未だ去らざるに一島更にあらわれ、 水路極まるが如くにして、 又忽ち開く。」とある中学読本の瀬戸内海の文は、全くここの景色をかいてくれ たものではあるまいかと疑われる。

      六、断崖美 須佐湾の湾口付近には、所々に外海に面した大断崖がある。高さ数百尺、屏風の 如く曲折して連互し、白浪裾を噛み、蒼松巓 てんを蔽い、豪壮にして而も雅趣 があり、秀麗にして而も気魄がある。試みに葉舟を壁下に寄せて仰ぎ瞰みれば、 舟の動揺に伴い、白雲の徂徠に随い、流石の大巌壁も看みる看みる傾き来って、 轟然たる響きを立てて倒れかかろうかと疑われ、そぞろに心担を寒からしめるで あろう。

      なお巌壁の断面は、時には板を重ね積んだような数百の横層を表わし、層々色彩 を異にして鮮麗な横縞を見せ、 時には数百の峯巒を絶大な神力を以てしめよ せ、各々の峯巒を筍のような丈高いものと化せしめて、たばねたとも見える縦襞 たてひだを畳んで、 日ざしの向きによって数十種の明暗と光沢とを見せ、或は 凹凸の曲面に大は人頭よりも大きく、小は鶏卵よりも小なる、 大小無数の岩礫 を帯び、所々岩礫の脱失した空穴を持っているのもあり、或は玉ねぎの球面の一 部を切って、幾重にも包んだその皮の、 ややほぐれぎみになったようなのもあ る。一々名状し切れないほどの複雑さを有している。 而も其の色彩光沢は、岩層そのものの固有の色彩の外、幾百年の苔と藻とその痕 の生ずる翠緑紫赫等の無限の色と、 日光をあび潮水の飛沫をおびて生ずる、真 珠の如き碧玉の如き、紅玉の如き紫の如き、銀の如き、赤銅の如き、鉄の如き、 鉛の如き、 千種万様の光を添えて、華麗とも艶美とも見えながら、どこまでも 豪宕雄壮、人に迫る鬼気を失わない所、独特の断崖美である

      七、波瀾美 丘のような濤なみが魔のように近づいてくる。近づくままに涛の山がせりとっ て、小みとりが翠みどり となり、翠がさみとりになると思う間もなく、 伸べる だけ伸び上がった涛も山の頂きが、婆娑と崩れて、白い雪がさつと翻り、紺碧の 涛の腹は看る看る跡形もなくなってしまう。 すると白い雪は、右にも左にもす ばらしい勢いでひろがっていって、幾千騎の白馬隊が、足掻あがきをそろえて驀 進するかのように、 わきかえり、にえかって迫ってくる。後からも後からも、 もみにもんで攻めよせる。先鋒の勢いが中堅の味方を誘い立てるのか、 先立つ 勢いを後攻めの勢いがおい立てるのか、前がひるめば後ろが猛り、右が疲れれば 左が怒り、いやもうすばらしい勢い。 暴れに暴れ、怒りに怒り、狂いに狂っ て、躍りかかりあびせかかる涛を、断乎として食い止める巨礁がある、巉巌ざん がんがある、 大絶壁がある。或は高く或は低く、或は立ち或は臥し、或は蹲う ずくまり、或は肩をそびやかし、或は脚をはり、 或は臂ひじを張り、或は胸を 張り、 大小数千の陸の軍勢は潮をしっかと喰い止める。喰い止められてなるも のかと、狂いかかる怒涛は、巨砲の発せられたような、 霹靂へきれきの万嶽に 響くような、轟然たる大音響を立てて、ありったけの力を尽くして打ちつける、 からみかかる、のび上がって浴せかける、 飛沫は雲の如く吹雪の如く白烟はく えんの如く、霧の如く、流石の巨巖もしばらくは影さえ見えぬ、すると吹き捲く 暴風に颯さっ ととんだしぶきのあとに、白浪をかぶつた巖の頭が現れ、巌の肩が現れ、巖の腹が見え、巖の脚が見えて来る。先ず一 面の白魂に、僅かに黒き赫き幾條の縦縞が見えると思えば、 忽ち幾百條のたき が白布をさらす如く流れ落ちる、その白布が幅が漸くせまくなり、はては縷々る る糸の如くなって消えるかと思うと、 はや第二の狂瀾はあびせかかってくる。 陸の奥の奥までもと、打って刳って、はねかえされた余波は、後から躍りかかる 味方の勢いと同志打ちをはじめ湧き上がり、 たぎり下がり、渦をまき、瀬を作 り、伸び、縮み、浮かび、沈み、右に奔はしり左に駛せ、混乱の極を尽くし、活 劇の限りをあらわす。 岩の間に生じた泡沫は、風にふきちぎられて、掌大の? いしころをなし、瓢々としてまい上がる。岩燕いわつばめ はこれをぬい白鴎は 空になく、而も其の姿態其の轟き、其の力、其の気魄は、秒時も同じことなく、 変動極まりなく、壮快限りない有様。 げに此の地ならではとうなずかれる。

      八、綜合美 山岳美、湖沼美、海洋美、島嶼美、断崖美、波瀾美それぞれ皆独特の味がある。 その一、二を備えるのみでも名勝たるの資格はあるが、 須佐湾の風致はむしろ この六要素を兼ね備え、各要素が互いに相助け、相補い、ここに潭然たる一大綜 合美を誘発し、 限りなき風韻と気魄を生ぜしめる所に、其の真髄があること は、すでにのべた通りである。(綜合美は勿論要素美ではないが、 読者の注意を 新たにするために前説を反復したのである)

          探勝のしるべ

      写真を撮るに方あたつて、碌々ろくろく姿もととのえないのに、とってしまわれ たら残念ではあるまいか、 ものは見所によってよくもあしくもなる。だから正 面の似会う人は正面を、側面の美しい人は側面を、姿のよい人は全身を、姿勢の 悪い人は半身をといった風に、 少しでもよく見えるような位置をうつさなけれ ばならないのである。この須佐湾を探勝者各位の眼のカメラにうつしていただく にしても、 須佐湾としてはそれだけの注文があるのである。 そのうえ探勝者各位としては、惜しい時間を割いての御遊覧であるから、なるた け短い時間で出来るだけ多くの箇所を御覧になりたいことであろうと思う。 この二つの要件、即ち 一、各種の勝景をできるだけ美しく見ていただくこと。 二、各地の勝景をなるたけ多く短時間に見ていただくこと。 を条件として路順を御紹介しようと思う。

      海辺の勝地と古跡

      海の勝地を探るには、舟をもって海よりするがよい。併し冬季風浪の激しいとき とか、其の他の季節でも風波の著しい折とかには、舟が用いにくいから、 其の 際は陸から要所要所を見られるがよい。先ず海路の方から説こう。

      海よりの探勝

      ページ内コンテンツ
      • イ、水海湾*
      • ロ、鮑あわびの養殖場*
      • ハ、聖巌ひじりいわ*
      • 二、堀氏別荘*
      • ホ、笠松山*
      • へ、亀島と鶴崎*
      • ト、久原波止場*
      • チ、平島・唐船打払うちはらい古跡*
      • リ、鹿渡ししわたり*
      • ル、亀の首*
      • ヲ、金瀾崎*
      • ワ、深蟶潟*
      • 力、鼻面*
      • ヨ、屏風岩*
      • タ、沖の松島*
      • レ、高山、黄帝社*
      • ソ、雄島*
      • ツ、地の松島*
      • ネ、赤瀬の洞門 *
      • ナ、鳥帽子岩*
      • ラ、潜洞*
      • ム、観音岩*
      • ウ、海苔岩*
      • ヰ、龍宮瀧*
      • ノ、鎧島*
      • オ、千畳敷*
      • ク、布延ぬのば*
      • ヤ、波里魔渓*
      • マ、舵穴*
      • ケ、引明の瀧*
      • フ、長礒*
      • コ、蜑地(海士ケ地)*
      • 工、蟶潟*
      • テ、青浦*
      • ア、露兵漂著の記念碑*
      • イ、東回り*
      • ロ、西回り*
      • イ、益田邸と益田牛庵*
      • ロ、村社笠松社と益田弾正*
      • ハ、育英館地と小國融蔵*
      • 二、晩香堂*
      • ホ、大谷樸助の宅祉*
      • へ、郷社松崎八幡宮*
      • ト、三蔭山招魂社*
      • チ、唐津の梅林*
      • リ、唐津瀧*
      • ヌ、須佐焼窯元*
      • ル、鏡山神社*
      • ヲ、大薀寺*
      • ワ、浄蓮寺* 真宗、応安5年開基、本寺は萩端坊はしのぼう
      • 力、心光寺*
      • ヨ、法隆寺*
      • タ、紹孝寺*
      • レ、光讃寺*
      • ソ、犬伏城祉*
      • ツ、懸ケ城祉*
      • ネ、笠松山の城祉*
      • 鶴崎晴嵐*
      • 蜑地帰帆*
      • 中島泊舟*
      • 玉島夕照*
      • 蟶潟秋月*
      • 雄島千鳥*
      • 瑞林晩鐘*
      • 大越落雁*
      • 松島白浪*
      • 平島夜雨*
      • 笠松暮雪*
      • 亀島遊魚*
      • 一、地殻の成生*
      • 二、海陸の成生*
      • 三、水成岩*
      • 四、火成岩*
      • 五、変成岩*
      • 六、化石*
      • 一、太古代*
      • 二、古生代*
      • 三、中世代*
      • 四、新生代*
      • 一、第三紀層*
      • 二、ホルンフェルス*
      • ホ、化石*
      • へ、斑糲岩はんれいがん*
      • ト、?岩ひんがん*
      • チ、石英斑岩*
      • 一、地層の摺曲及び断層*
      • 二、塊状岩の地殻構成状態*

      イ、水海湾* anchor.png Edit

      ここは昔入江が深く全く湖のように見えていたので、湖といっていたのを、後世 水海と書き誤って、今日に及んだものだという。 ところで其の湖はさらに遡る と御津海から来たなどという説もある。なぜ御津というかといえば、往古須佐之 男命が出雲の日の御崎から、 高山岬を目標に船をすすめられ、必ずこの湾にみ 船を入れさせられ、ここに御碇舶のうえ、天候を見定めて、さらに朝鮮方面に船 出あそばされたので、 命にちなんで目標の山は神山(今の高山)薪水しんすい御 おん取り入れの地は須佐、御船泊まりの港は御津というようになったとの話。その真偽はともかくとして、かかる伝説 のあることは、数百千年の昔の人も、この湾を良い港と認めていたことがうかが われて、一入ひとしおのゆかしさが感ぜられる。 ここは、底が奇麗な砂地で、而も遠浅で、湾内第一の海水浴場である。

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      ロ、鮑あわびの養殖場* anchor.png Edit

      標木の立っていて、瀬の見える所が鮑の養殖場で、礒見鏡で覗いてみると、沢山 な鮑がいる。鮑は須佐の名物で、此の湾の内外いたる処に沢山産する。 先年東 宮殿下が本県御巡啓の際にも、県から献上を命ぜられた。

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      ハ、聖巌ひじりいわ* anchor.png Edit

      昔歌聖柿本人磨が、石見の高津から仙崎に往く途中、此の巌上に立って湾内の風 光を賞したということから、聖巌と称えたものだという。 巌上に人磨を祀った 小祠があったが、今は他に移された。仙崎にも人磨の遺跡といわれている人丸峠 がある。 藩政時代には、この上の突角を「お涼みのはな」といって、領主益田家の避暑地 に充てられていた。

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      二、堀氏別荘* anchor.png Edit

      堀氏は石州の富豪である.

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      ホ、笠松山* anchor.png Edit

      山麓に旧領主益田氏の廟びょうがある。笠松の暮雪は須佐十二景(後に十二景を まとめて紹介するつもりである)の一つで、 雪景色は一入のながめである。

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      へ、亀島と鶴崎* anchor.png Edit

      鶴が首を伸ばしたような、翠松を負うたやさしい岬の前には、亀が波上にうかん でいるような巨巌がある。亀島の遊魚、鶴崎の晴嵐はいずれも十二景の一つであ る。

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      ト、久原波止場* anchor.png Edit

      対岸の地つづきの島が赤島。その向こう茂樹欝林を背に負うたのが久原波止場で ある。本町出身の大阪久原氏が、7千余円の巨費を投じて本町 (当時は村)発展 のために築港したもので、明治43年5月の落成である.水が深いので5、6百噸 の汽船は桟橋に横着けになる。 その奥に船匿ふねかくしといって、船が泊っていてもこちらからは全く見えぬ深い入江があり、又油の礒といって、 どんな大じけの時でも、油を流したように少しも波の立たぬ所がある。 航海者 もこんな良い港は北海岸にないといっている。赤島の前に礒がある。ここに養魚 池を作ろうと計画中である。 完成のうえは銀鱗金鰭ぎんりんきんきの泳いだり 跳ねたりする姿が、自由に見られもしまた釣りもできてよい遊び場となるであろ う。

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      チ、平島・唐船打払うちはらい古跡* anchor.png Edit

      久原波止場の方から眺めると、赤い半玉をいくつかならべてぐっとくっつけたよ うな岩の頂に、松の翠みどりが流れるようにかぶさって、 柔らかな感じの島で ある。その名のように上は平らで、桜があり春は暖かい雲を宿している。島の端 に俵島というのがある。 俵を積んだ面白い形をしている。 島の側そばに唐船打払の古跡がある。時は享保11年8月7日、高山岬のあたりに 出ていた漁船が二度斗ばかりの大砲の音を怪しみ、 段々だんだん調べてみる と、唐船が江崎の方へ向かって進んでいる様子、驚いて届け出ると本藩へも注進 というさわぎ。 翌あくれば8日唐船は大筒を打って入港して来る。見張りの船 からは面々扇を以て手真似で沖へ出よと指図をしたが、通じないのか応じないの か、 やおら中島の西の方へ碇を入れてうった。船長の申し分によると、船は貿 易の目的で繻子しゅす、緞子どんす、銀、砂糖、 薬種等を積んで、長崎に行く 筈のところを、途中難風にあって漂流したので、船中水がなくなって困っている という話。筆談を以て吟味を重ね、 本藩とも慎重相談をとげたようであるが、 怪しいところがあつたものか、いよいよ打払に決着。本藩の加勢が到着したの で、やがて包囲の陣を張って攻め立てたが、 当時の覚書や絵図等を見るに、唐 船は長さ百拾数間水上4間ばかりうきいでた、40余人乗りの大船で、これをとり まく味方の舟は十分の一位の小型の舟、 まるで蝉に蟻がたかったようだ。9日 の晩から大筒・鉄砲を撃ちつけけり、焼き草船や松明たいまつ火矢ひやを以て 、火攻めにしたりしたが、逃げる気配もなく、却かえって平島、赤島の間に移っ てきた。初めの間は仲々手応えがなかったが、 11日昼から遂ついに焼けだし、 真紅の炎を上げて14日夜中まで焼け続いたという話。とにかく此の地では珍しい 騒ぎであったらしい。

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      リ、鹿渡ししわたり* anchor.png Edit

      平島の本土と接する所に、峡谷のような所があって、船が通ずるが、昔はここを 鹿が渡って往来をしていたという話。 又中島は湾内有数のながめで、鹿渡りのあたりから中島をながめた景色は、やさ しく趣のある島の上には、ふり面白い老松が生い茂り、 滴る翠は海に流れて、 潮にも倒影あざやかに、絵も及ばぬながめである。島上に弁天社があったが、今 は須佐浦の恵比須社に移された。 だが7月17、8日の祭礼には、御船で此の島に 渡御があり、宮島の管絃祭そっくりの賑やかさだ。此の辺は島陰で風波が穏やか であるから、 久原波止場の出来るまでは、船の泊まり場になっていて、中島の 泊船といって、十二景中にも数えられている。 前記の平島には、曽かつて通夜 堂があって、泊船中の船人が高山の海神に祈念を捧げる便に供したものであっ た。 赤島からこの辺はチンダイのよく釣れる所である。

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      ル、亀の首* anchor.png Edit

      中島に向かって本士から突出している岬を、亀の首という。高山を胴体とすると ここは其の首にあたり、恰も海に俯して潮を呑もうとしているように見うけられ る。

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      ヲ、金瀾崎* anchor.png Edit

      ここは北海画伯の所謂いわゆる小松島で、大小の巌島が四十余り一面に散在し、 画伯が青海島の十六羅漢以上だと叫んだ所。岩質が複雑なので、 島々がそれぞ れの石脉光彩を呈して、千態万状であるうえに、島上には古稚な蒼松が蟠屈し て、とびかう白鴎とともに趣をそえている。 ここで狂瀾怒涛の踴躍ようやく激 突の壮景を味うのは、頗る快心のことであるが(前記波瀾美参照)波静かな夕、 沈みゆく夕陽を眺めるのも亦、 えならぬ好景色である。時々光を失い、刻々紅 を加え、いやがうえにも大きく、舂うすづき沈む夕陽の美しい輝きに、空も潮も 紅に染み、 島も帆も波も黄金に輝き、巌も松も舟も紫金に栄え、満眸まんぼう 悉く珠玉、乾坤すべて紅焔の大景は到底筆舌の尽くす所でない。

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      ワ、深蟶潟* anchor.png Edit

      大きいモツの釣れる所。 このあたりから断崖絶壁となり、雄大な景色が漸次展開してくる。

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      力、鼻面* anchor.png Edit

      突出した古巌の腹に大きい穴が刳られていて、牛の鼻面のようだ。秋から初冬に かけてクロヤの釣れる所である。付近に釣瓶落し、鍋島の勝がある。

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      ヨ、屏風岩* anchor.png Edit

      五百尺許ばかりの断崖が刳られたように立って、曲折連亘している有様は、恰も 造化の大屏風である。 岩ひだの明暗は変化の裡うちに統一を帯び、処々婆娑た る奇松を項き、蒼あお其の随所に 実綴じつていし、崖裾を噛む白浪碧潮相映発 している。一帯に崖面は潮気をおび飛沫に湿うるおい、 紫金と輝き赤銅と照 り、高壮雄大の裡に秀麗の雅致を帯びている。なお又春は岩燕が群れ飛んで、面 白い声でなきかわし、 冬は鷲が来って雄姿を見せている。〔前記断崖美参照)

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      タ、沖の松島* anchor.png Edit

      向こうに見えるのが沖の松島で、屏風岩を左にして之を遠望する趣は、湾外有数 の風致である。松島の付近には大きいタチ貝が沢山とれる。 須佐湾西側の景勝 は先ずこのあたりを終とする。船を廻して雄島に向かうがよい。

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      レ、高山黄帝社* anchor.png Edit

      この辺から高山をながめるがよい。海抜1800尺ばかりの山であるが、日本海 に突出しているので、 山上からは東は出雲の日の御崎、西は大津郡の向津具岬 まで展望されるほどで、航海者の大切な目標とせられている。 山に黄帝社とい うのがある。航海者の守護神として有名で、海路遭難の折祈念をこめると、不思 議に霊験があるということで、 この神の加護によって、九死に一生を得たとい う話が、幾つも残っている。祭神はよくわからぬが、 恐らく須佐之男命にゆか りの船霊神を後世儒学の徒が、黄帝と改称したのではあるまいかということ。と にかく日本に黄帝社のあるのは珍しい。 (前記中島の項参照) 高山には黄帝社の外に瑞林寺という曹洞宗の禅寺がある。瑞林寺の晩鐘は十二景 の中である。なおこの山には東山・ 西山と言って二つの大きい牧場があって、 宇治川の先陣で有名な池月はここの産だという伝説までがある。 それからこの 頃は尊石(斑れい岩のこと後章参照〕と称となえて、頗る立派な石材を掘り出す ようになり、 漸次他へ移出せるようになった。(前記山岳美の項参照)

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      ソ、雄島* anchor.png Edit

      須佐の入江の天神島は、根から生えたか浮島かと俗謡にあるように、天神島とも いい、又岩の数が 48もあるので、イロハ島ともいっている。佐藤博士の説によ れば元一つの島であったのが、波涛のために浸蝕せられてこんなに分かれたとい うこと。 この辺は貝類が沢山産するので、拾って土産にするも一興であろう。

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      ツ、地の松島* anchor.png Edit

      沖の松島に対して地の松島という。松島の白浪は十二景の一。

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      ネ、赤瀬の洞門 * anchor.png Edit

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      ナ、鳥帽子岩* anchor.png Edit

      この辺は岩層を縫うて南帯植物の達磨菊が密生し、秋の花時は頗る美観である。

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      ラ、潜洞* anchor.png Edit

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      ム、観音岩* anchor.png Edit

      その形が観音の座像に似ているので此の名がある。高さ数十間の礫岩が頗る雄大 である。

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      ウ、海苔岩* anchor.png Edit

      海苔の産地であり、若芽もたくさんとれる。高山岬の海苔と若芽は風味が特別 で、京阪地方でも頗る賞讃せらる。若芽は缶詰にしたのもあってよい土産にな る。 この辺は秋から初冬にかけてクロヤ釣りのよい漁場である。このあたり一 帯の山裾に、広大な岩台があり、大厦 たいかのような巨巌が、処々に重なっ て、屋上更に屋を築いたように、層々段を成している。又中には左右相接して、 造化の神刀を以て見事に載ち切ったような、長さ数十間・高さ数十間底に碧潮を たたえた、一直線の割れ目などもあって、頗る偉観である。

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      ヰ、龍宮瀧* anchor.png Edit

      山裾の断崖にかかって、海中に直潟しているありさまは、碧浪に躍る白竜はく りょうが雲に向かって騰あがるかと 思われる、珍しいながめである。

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      ノ、鎧島* anchor.png Edit

      このあたり一帯はスレートの層で、その断面には数百、層をあらわし、薄いのは 板の如く、厚いのは巨材の如く、或は黒く或は蒼く、 或は灰色に或は雪白に、 光彩錯綜して鮮麗華美の横縞を露あらわし、而も雄大豪宏鬼気を帯びて頭上に迫 り来る所、 正にこれ天下一品である。佐藤博士もかかる大規模のスレートの層 面が露出している所は、日本には他にないといわれたそうだ。 鎧島は崖裾に分 立して居る三箇の巨巌で、その風姿と横層とが、その名の如く鎧に似通っている。

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      オ、千畳敷* anchor.png Edit

      スレートの條層が、最も鮮明にあらわれた所で、やや斜めに流れて鮮麗な縞目を 露わしている所は、まるで造物主の大浴衣を、 のりはりでもしているようだ。 巌は中間で断たれて断崖の下に碧潮がただよっているが、そのやや沈んだほうの 巌は、数百間に互って頗る長く、 上面は二十度位の勾配を保って極めて平坦広 濶である。付近に白石灘、白石、黒瀬、黒岩などがある。白石には髪毛海苔かも じのりという面 白い海苔が出る。見物を急ぐ人はこの辺から引き返すがよい が、ゆっくり見たい人は尾浦まで廻るがよい。

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      ク、布延ぬのば* anchor.png Edit

      山裾の断崖中に、数百間に互る大黒條が斜めに流れて、消え残りの虹のあしのよ うである。

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      ヤ、波里魔渓* anchor.png Edit

      筆者を案内してくれた尾浦の老人も、今迄一、二度来たばかりという話だ。殆ど 世に知られていない。他郷のもので見に来たのは恐らく筆者等が嚆矢かと思う が、 素晴らしい絶景である。渓は直径十数間の大岩が錯落としている。海に開 いているが、太古は凹凹のある球面のような礫岩の断岩が、茂樹欝林の山裾に対 立して、 幅は数間に足らぬ。仰げば蒼天は尼の川のように一線を画するのみで ある。渓口から爪先上がりに遡れば約10間位で第一淵に達する。わずか1、2間 位を登って、 更に50間位溯れば第二淵に達する。当面の巖隙から数條の渓水は 淙々と落下している。下は物凄い碧をたたえて深潭である。昔早天に釣鐘を沈め て降雨を祈ったら、 効験があったが、釣鐘は上がらなかったといういい伝えが あるとか。ここを越せば直ちに第三淵がある。これは浅うして、淵の水は水量の 少ないときは溢れ流れるまでもなく、底にしみて第二淵に下がるのである。この第三淵に 落ち下る瀧がある。 高さ10間許ばかり水晶をさらすようだ。更に登って瀧の上 に出ると、滑らかな球に近い大磐石の上を雌雄二条の清流が斜めに併走してい る。 これが合一してさっきの瀧になるのだ。向こうは峡谷を隔てて渓口の怒涛 が見える。蹠せきは瀑水を遂お うて辷すべり出はせぬかとそぞろに心胆を寒か らしむる。

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      マ、舵穴* anchor.png Edit

      左右に二巨巌があり相補って船尾のような趣を呈している。その中に隙間があっ てこれに舵形の巨岩がはまりこんでいる。まるで大船の艫をみるようだ。

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      ケ、引明の瀧* anchor.png Edit

      尾浦の海岸から2丁位の所にある。渓は4層をなし、上より礫岩、硬質砂岩、頁 岩、蛮岩と、それぞれ岩質を異にしている。第一、第二、第四瀑はいずれも直下 し、 第三瀑は斜走している。この瀧で面白いことは瀧壷のないことだ。点滴さ えも石を穿つものを、瀧壷がないのは不思議であるが、これは地盤が堅牢なため である。 この辺に江八景があるが、まず割愛して舟を返すことにする。

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      フ、長礒* anchor.png Edit

      陸つづきのよい遊び場である。貝類も沢山ある。

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      コ、蜑地(海士ケ地)* anchor.png Edit

      蜑地の帰帆は十二景中に数えられている。

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      工、蟶潟* anchor.png Edit

      湖水のような入江である。蟶潟秋月は十二景中に数えられる。 この海辺4、5丁奥に浄蔵貴所がある。昔三好清行の第三子浄蔵大徳が各国修行 の途次、高山から湾内の風向をながめて、其の美に憧れ、遂にこの入江に庵を結 んで、 余生を送ったという話。今は眼病の神として、尊信せられ参詣者が多い。

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      テ、青浦* anchor.png Edit

      長礒から青浦一帯の海は遠浅であるから、海水浴傍かたわら貝拾いで、夏は頗る 賑わっている。

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      ア、露兵漂著の記念碑* anchor.png Edit

      法隆寺の側に記念碑がある。日本海々戦の折、露艦が沈没して将校以下30余名の ものがボートに乗ってここに漂着したので、一時法隆寺へ収容して、 其の筋へ 引渡した。碑は其の記念に建てたものである。

      陸よりの探勝

      須佐湾の探勝には舟を用いるのを第一とするが、風波の荒い時分には舟を利用す ることが困難であるから、陸上から要所要所を探勝するがよい。それには

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      イ、東回り* anchor.png Edit

      先ず須佐湾の岸辺きしべを迂回して 水海、赤島、久原波止場、平島、亀島鶴等を観みて、高山の峠を越え、海苔石附 近に出で(駅より約30町)鎧岩、千畳岩等を眺めるがよい。 又高山(項上まで駅より約1里10町)に登攀とうはんして、入江の優美さと外海の 壮大さとを一眸に収めるならば、更に面白かろう。

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      ロ、西回り* anchor.png Edit

      鵜の瀬、聖巖、笠松山、青浦、蟶潟等を見て、山越しに金欄崎に出で、雄島、長 礒、鼻面、屏風岩、沖の松島等を眺望する。

      陸上の勝地と古跡

      須佐湾を探勝した序を以て、陸上の名所旧跡を探るがよい。

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      イ、益田邸と益田牛庵* anchor.png Edit

      駅から3町許りの所にある。須佐町沿革の中、須佐村と須佐町の項に記載したか ら再説をはぶく。益田家はもと石見益田の七尾城に拠った豪族であったが、 第 20代元祥牛庵の代に初めて此の地に移った。其の元祥の略伝を掲げる。

         益田牛庵は石州の豪族益田藤兼の子、朝鮮の役にも名将として知られ、関ヶ
         原の戦後家康は其の才を惜しみ、本領安堵という条件で招いたが、 牛庵は
         更に応ぜず、数万石の旧領をすてて、12千石に安んじて、毛利氏に仕えたの
         は、父以来の毛利の知遇に報いんためで、其の義の固いことは、 戦国の世
         に稀に見るところである。
         牛庵は其の性武勇なるのみならず、頗る民政に長じ、勧農殖産に努めたこ
         と、民の其の余沢よたくを蒙ったことは非常なもので、 弥富村に現存する
         牛庵堤は、其の一斑を伺うに足るものである。牛庵の最大事業は毛利氏の財
         政整理であって、毛利氏が領地の大部を失って、 僅かに防長二州を保つに
         至った際の、財政大困難の局に当たって、而も鋭意これが整理を敢行して、
         毛利氏の社稷しゃしょく安定の基礎を確立し た。寛永9年牛庵齢古希に及
         んで、始めて2州財政総攬の大任を辞したが、其の自筆の引継書には、金銀
         什具に至る迄明細に記載し、 「寛永九年の物なり一粒もつかい不申相渡し
         申候事」とある。どうにもこうにも手も足も出なかったほどの苦しい財政を
         美事に整理して、多大の貯蓄を残し、 8月下旬の引継ぎなのに当年の歳入
         一文もつかわずとは、牛庵の其の赤誠と才識とは実に驚嘆にたえないではな
         いか。この事を以てしても明らかである。 こんな次第で牛庵は、長州の大
         元老を以て待遇せられていたが、而も身は寒僻かんへきの要衝須佐を領し
         て、北方の強として石州を固めていた。
         一体益田氏は毛利氏の譜代ではなかったが、牛庵以来毛利氏と特別に深い関
         係を生じ、爾来家老の家柄となったのである。 
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      ロ、村社笠松社と益田弾正* anchor.png Edit

      駅から3丁余、益田邸後の笠松山麓にある。蒼樹欝々として、閑静清浄の神域で ある。慶応3年の建立で、華書に掲ぐる笠松社の額は澤嘉宣の揮毫である。 下に祭神益田右衛門介親施ますだうえもんのすけちかのぶの略伝を掲げる。

         益田右衛門介は幕末に於ける長藩三家老の一人で、益田家第33代の英主、名
         は親施、通称は弾正、禄高12千石を食む。其の藩政に当たるや、 大いに綱
         紀を振張し、士気の振作に努め、藩主毛利敬親の信任をうけた。文久2年藩
         世子元徳に従い京に上り、これを輔けて国事に勤む。 其の後一旦帰国のう
         え、同3年更に藩主に代り、建言を齎もたらして入京し、やがて攘夷親征の
         大和行幸の議が定まつた。 弾正朝命により、藩兵を以て禁門を守衛し、在
         京有志と共に画策するところがあったが、8月18日会津藩の讒愬ざんそに依
         り、 朝議が俄かに変って行幸を中止し、長藩の禁衛を解いて、帰国を命ぜ
         られた。右衛門介は百方回復を図ったが、事遂に成らず、 三条実美等七卿
         と共に長門に還った。
         翌元治元年藩兵大挙して、京に迫り、藩主父子の冤えんを訴えんとしたの
         で、右衛門介は主命により、 これが鎮撫に努めたが、遂に其の目的を果さ
         ず、却かえって彼等に擁せられて、将まさに入京せんとし、 山□崎天王山の
         辺に次した。7月19日いよいよ状を闕下けっかに奏し、併せて京都守護職松
         平容保を除かんと欲し、 兵を督して禁闕きんけつに向い、堺町門から入ろ
         うとすると、会津其の他の守衛の藩兵に遮られて、遂に銃火を交えるに至っ
         た。 然るに遂に敗れて山□崎に退き、国司くにし、福原の二老と相前後し、
         兵を収めて国に帰り、罪を負うて采邑さいゆう 須佐に屏居した。間もなく
         藩主父子は重譴ちょうけんを蒙り、 右衛門介等は徳山に幽囚せられた。其
         の後幕兵四境に迫るに及び、国司、福原と共に一藩の責を引いて、11月12日
         徳山に於て自刃した。時に年32。首級は広島に送り、征討軍総督の実検に供
         した。 明治24年朝廷其の勤皇報国の忠節を追賞して、特に正四位を贈られた。
         弾正の逸事の中には伝うべきものが少くないが、ここには其の二、三を紹介
         するにとどめておく。
         或る夏の夜に侍臣数人を従えて市中に微行し、某亭に登って酒を命じて涼を
         納なふれていた。 すると忽ち轟然たる筒音が起って銃丸は耳をかすめてと
         んだ。侍臣等は色を失い、あわてて扶たすけ去ろうとすると、 弾正はこれ
         を止めて、「一体非常の際に処して、思い切ったことをする以上は、索より
         衆怨に当たる覚悟がなくてはならぬ。 わしは既に身命をなげだして藩政に
         当たっているのだ。銃丸位が何だ。まあゆっくりのむがいい。」といってか
         らからと打笑い、 杯をあげて満引、神色少しもかわりがなかったということ。
         堺町の変に事敗れて帰藩すると、俗論党は既に藩庁により弾正等の正義派を
         圧迫する事甚しく、道路続々不穏の報をつたえていた。 従士は万一のこと
         を心配して間道から山口に入るようにすすめたが、弾正は更にきかず、「わ
         しは防長の士民に対して一つも疚やましいことはない。 其の上君命を帯び
         て上京したのだ、藩主の使臣たるものは宜しく堂々たるべきで、間道をとっ
         て君命を辱しむべきでない」といってたということ。 万死不重君命重。の
         語は弾正の屡々筆にしたものであるが、其の語の如く至誠藩主を補けて王事
         に謁し、死生を超脱していたことは、 これ等の逸事を以ても明らかである。
         采邑の政務を処断する公衙に邑政堂というのがあった。或る日弾正が堂に
         至って、昇降口の二つあるのを見つけ、其のわけを質すると、 当職のもの
         が「一方は上士ので一方は下士のでございます」という。弾正は「処すべて
         其の下士はわしが邸ではどこから上下しているか。 上士も下士も一様に同
         じ式台から出入りしているではないか。邸でさえ区別しないものを役所で区
         別するという道理はない。 こんなことはわしが臣下を待遇する真意ではな
         いのだ。」といって其の一つを塞がせた。
         嘗て上京の途次舟中の無聊むりょうにまかせ、従臣某を召して「近来接夷論
         が上下に囂かまびすしいが、 汝は其の成否についてどう思うているか」と
         たずねた。某は「それは屹度出来ましょう。若し出来なかったらわが神州を
         どうしましょうか」という。 弾正は笑って「いやいやとても出来ぬ。出来
         るものではない」という。某は驚いて膝を進め「これはどうも異なることを
         仰せられます。独守正気如金石。遂挙防長鏖犬羊 とは君がかって某に賜っ
         たお言葉、犬羊は鏖みなごろしにしなければならないのです。さきの正気は
         どうなさいましたか。」とつめかける。 弾正は「そうだ、其の覚悟がなく
         てはならぬ。其の覚悟で進んでゆけば、五港を請うのに対して三港を開いて
         すもう、そうでなかったら、 神州は遂に洋夷に蹂躙じゅうりんせられるば
         かりだ。攘夷は譲夷である。つまり夷をして数歩を譲らしめるのだ。今の時
         に方あた って真に鎖国の実をあげようなどと考えているのは、全く時勢に
         通じないものである。」といって聞かせたということ。 前の例の非官僚式
         平民的であったこと、後の例の大局を達観して時勢の趨向を察知していたこ
         となどを考えると、弾正が近代的精神の先覚者として、 時勢をぬいていた
         ことがよくわかる。 
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      ハ、育英館地と小國融蔵* anchor.png Edit

      現育英小学校内にある。 育英館は享保年間旧領主益田氏、其の臣品川勿所を挙げて、藩士の子弟を教えし めたのに始まる。其の後波田嵩山、山科太室等これに與り、 嘉永5年領主益田 親施累代の遺志を紹つぎ、学舎を増築し、学規を改め、小国嵩陽を抜擢して学頭 とし、文武の業を練り、声名一時遠近に揚ったが、 間もなく親施、嵩陽相次い で没し、佐江文学は漸次衰頽すいたいを来した。左に小国嵩陽の略伝を掲げる。

         小国融蔵、嵩陽と号をいう。7歳の時父を喪うしない、長ずるに及ぴ、父の
         遺志をついで学に志したが、家が貧しくて思いを果すことができないのをう
         れい、 19歳の時家を脱して江戸に赴き、苦学数年、後昌平黌に学び、安井
         息軒の門に遊んだ。夙つとに尊王の念を抱き、且つ蝦夷開拓の説を唱えて、
         単身蝦夷に入り、樺太に航し、地形を察して要塞設備の要地を探究し、屯田
         の策を講じた。
         融蔵家を出でて殆ど10年、嘉永4年国に帰るに及び、育英館の督学となり、
         学政を委任せられた。嘉永6年米艦浦賀に来泊の際には、 益田右衛門介に
         従って戌役に従った。其の後江戸、小倉等に兵書を学び、九州を歴遊して各
         地の名士と締交し、物情を探り、翌7年帰郷、 再び督学となり、兼ねて銃
         隊を訓練し、兵書を講じ、常に外交禦侮ぎょぶの術を講じ、士気を鼓舞し、
         大義を明らかにするを以て自ら任じた。 吉田松陰、僧月性等と意気投合し
         ていた。就中松陰と志を通じ、塾生を交換して研鑽を図り、他日大いに為す
         ところあらんとした。
         文久2年藩主毛利敬親が、列藩に先立ち公武合併運動をなすに方あたり、主
         人右衛門介は密務を司って京師にいたが、 融蔵はこれを補けて諸藩の名士
         間に周旋して種々画策するところがあった。元治元年久坂義助等と藩主の雪
         冤せつえん運動を図り、事敗れて自殺せんとしたが、 義助は托するに後事
         を以てし、百方慰諭したので遂に思い止まり、主人右衛門介の後を逐うて国
         に帰った。同年8月右衛門介が徳山に幽せられるに及び、 融蔵は同志大谷
         樸助と策応して、主人を幽屋の中より抜こうとしたが遂に果さず、俗党の忌
         むところとなり、蟄居を命ぜられ、悲憤の涙を呑んで遂に病没した。 
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      二、晩香堂* anchor.png Edit

      須佐から松下村塾へ入塾した最初の人は、大谷樸助であるが、樸助は松陰自筆の 士規七則を貰うている。これは松陰遺墨中重要なものであるが、松陰がこれを贈った心事は、恐ら く須佐に村塾の分霊をなす積りであったろうと思われる。 樸助のあとを遂うて、須佐からは、重臣益田邦衛以下新進の青年7人が入塾し、 村塾からは、須佐開港論の材料を松陰に提供した富永有隣を始めとして、 山田 顕義、伊藤博文、品川弥二郎、久坂玄瑞など錚々そうそうたる連中が十数人も やって来て、小国融蔵の官舎であった晩香堂に入り込んで、 自炊をしながら教 授をしていた。大谷樸助も勿論これに関係していた。これ等の人々は年こそ若い が、其の青年を引き立てていく態度は、 実に緊張したものであったそうであ る。何しろ村塾としては唯一の分塾で、精神的新領土の開拓なのであるから、其 の意気込みは素晴らしく、 数ケ月間の臨時事業ではあったが、須佐の雰囲気を 一新し、後年回天軍の義挙等も起ったのである。益田弾正没後の須佐回天軍の顛 末は、 津田常名翁の筆になる回天実記に述べてある。(同書は京都の尊攘堂に納 めてある)常名翁は現町長津田五百名氏の実父で、少年の時から弾正に近侍し、 幕末の多くの事実を目撃し、下関海峡の攘夷戦、堺町の変、蛤門の戦、長州四境 の戦争、鳥羽・伏見の戦等の実歴者で、 今は他に類例の少ない回天史実の目撃 者である。

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      ホ、大谷樸助の宅祉* anchor.png Edit

      心光寺裏の小川に沿うてある. 樸助名は実徳、益田右衛門介の家人である。蛤門の変には、彼は久坂玄瑞に従っ て京都にいた。久坂の命を受け藤村某と共に陳情書を携えて淀城に入った。 守 兵がこれを捕らえようとするのを叱りつけて、「我等も禁を犯すの非を知らない ものではない。臣士の情として自ら己むを得ないのだ。 この書はこれを貴藩の 主君に御渡しするのである。」といって衆を排して入る。そこで重臣が出て応接 し、二人を客舎に延みちびいて厚遇し、 書を還した。二人は更に屈せず「貴藩 は老中職ではござらぬか。上言を擁塞ようさいして其の職を尽くしたといえます か。 これがために他日不測の変を起こしたら、それこそ貴藩の責任でござる ぞ」ときめつけたので、重臣も辞がつまって、遂に陳情書をうけつけたというこ と。 塩谷宕陰が、樸助の文を評して鋒鋩ほうぼうが露あらわれ過ぎていると 言ったが、機鋒の鋭いことは概ねこの類である。 其の後右衛門介が死を命ぜられて自刃するに及び、樸助は悲墳して河上範三と相 諜り、諸隊と志を通じ、帝側を一清して、主君の恨みを晴らそうとしたが、果さず。それは俗論党 が主命を矯めて切腹を賜わりたからで、 範三と共に30にも足らぬ若さで(時に 28)悲壮の最期を遂げた。

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      へ、郷社松崎八幡宮* anchor.png Edit

      孝徳天皇の大化6年、豊前国宇佐八幡宮を当地松ヶ崎に勧請し、宝永16年現在の 所に移した。本町の産土神である。社前の両側に並び立つ石燈擁は、 旧領主の 江戸参勤より帰国の度毎に献納したものである。

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      ト、三蔭山招魂社* anchor.png Edit

      明治2年の創立、楠正成の霊を安置し、戊辰の志士37名を祀る。其の中には奇兵 隊の人が多い。 毎年四月十五日に祭祀を行う。

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      チ、唐津の梅林* anchor.png Edit

      駅より15町 淙々たる渓流に沿うて行くと、犬鳴山の蒼翠眉に迫るあたりに、数十株の老梅が 清浅の流れに臨んで、臥龍がりょうの姿を列ね、 横斜の枝を交えているのが眼 に入るであろう。早春梢頭しょうとうに香雲を宿すとき、試みに櫛をひいて遊ん でみるがよい。 林をへだててひびいてくる鶏犬の声まで馨かんばしく、坐に仙 境に入る思いがするであろう。

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      リ、唐津瀧* anchor.png Edit

      更に遡ること2町許りにして、一つの瀧がある。こんもりと茂った樹々の緑の、 埋め残した2間の幅を、?々とうとうとわがものがおに、 流れ落ちる一道の爆 布がある。真直ぐにすっと下って右に折れ、左に返って又右に傾くといったよう に、うねうねと上下30間ばかり、白蛇の姿をあらわしている趣、 夏はこのうえ ない涼み場だ。単に暑さを洗うばかりでなく、世の煩いも心の塵も、洗い流して さっばりするにちがいない。とにかく楽にいかれる瀧として誇るべきである。

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      ヌ、須佐焼窯元* anchor.png Edit

      梅林と瀧との中間にある。豊公征韓の役に旧領主益田氏の軍に従って帰化した鮮 人が、後に土谷六郎左衛門と改称し、陶器製造を創始したので、 このあたりの 地名を唐津という伝説があるが、真偽は

      兎もかくとして、此の地の産須佐焼は須佐土産の一たるはいうまでもない。

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      ル、鏡山神社* anchor.png Edit

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      ヲ、大薀寺* anchor.png Edit

      禅宗、天正19年開基、旧領主益田氏の菩提寺、本寺は大津郡大寧寺

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      ワ、浄蓮寺* 真宗、応安5年開基、本寺は萩端坊はしのぼう anchor.png Edit

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      力、心光寺* anchor.png Edit

      浄土宗、慶長17年開基、本寺は京都知恩院

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      ヨ、法隆寺* anchor.png Edit

      真宗、天正5年開基、本寺は浄蓮寺

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      タ、紹孝寺* anchor.png Edit

      禅宗、文亀3年開基、本寺は大津郡大寧寺

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      レ、光讃寺* anchor.png Edit

      真宗、本寺は萩端坊

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      ソ、犬伏城祉* anchor.png Edit

      御手洗左京之進の居城、後益田氏の抱城となる

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      ツ、懸ケ城祉* anchor.png Edit

      寺戸大学の居城、後益田氏の抱城となる

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      ネ、笠松山の城祉* anchor.png Edit

      吉見家の出城

      須佐十二景

      名勝須佐の特色は、前章に既に詳述したところであるが、これは現代的観方によ るもので、昔は須佐の勝景を精選して十二景にまとめていた。 前章各所にその 一々をあげてはおいたが、更にここに一括して紹介しよう。十二景選定の年代は はっきりしないが、 恐らく寛政年間のことであろうということ。 十二景に寄題した人の中で、良く知られているのは、前権大納言日野資枝(下記 の和歌)と 亀井南溟(下記の漢詩)である。 資枝は益田牛庵(牛庵の項参照)から 10代目で、須佐の文学興隆に力つとめた就祥なりよし (文化元年62歳で没)の国 学の師で、就祥に招かれて当地に来たことがあるそうである。南溟の作があるの は、 長州は山縣周南以来徂徠そらい派の古学が勢力があり、従って亀井塾との 関係も密接であった為であろう。

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      鶴崎晴嵐* anchor.png Edit

      海越しの山風わたる鶴崎の晴るる見る目は千代も変らじ 誰知十洲外 長門有鶴洲 翠嵐晴可畫 清唳落中流

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      蜑地帰帆* anchor.png Edit

      真帆片帆ひきし夕へは蜑が地の礒邊にかへる千舟百舟 點々蒲帆影 釣鱸何処帰 可憐烏鳥背 興帯汐陽飛

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      中島泊舟* anchor.png Edit

      泊舟枕とる間もなか島の波の響きをきき明すらし 落帆何処舶 九国定三越 不識瑞林寺 疎鐘夜半月

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      玉島夕照* anchor.png Edit

      夕つく日岩こす波に輝きてむべ玉島の名こそ隠れぬ 帝壁崑崙璞 投之東海裔 波間僅露巓 夕日爛相媚

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      蟶潟秋月* anchor.png Edit

      みつしほに浮かべる月を秋は見んあまの蟶潟いとまなくても 蟶浦千秋月 千秋月下人 不看秋月好 采蟶給丁緡

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      雄島千鳥* anchor.png Edit

      うき妻におき別れてや小夜千鳥名残おしまの波になくらむ 雌禽従厥雄 両々皆相呼 驚起看雄島 有求雌島無

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      瑞林晩鐘* anchor.png Edit

      入相の聲きく峯を木の間よりみつの林の寺そはるけき 欲識妙高頂 瑞華芬満林 雲帰人籟罷 隠々莫鐘音

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      大越落雁* anchor.png Edit

      仰き見る高嶺を連れて大越の浜べの秋に落つるかりがね 登楼看大越 簾幕敞清秋 潮声帰極浦 雁陣下中洲

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      松島白浪* anchor.png Edit

      松島の影みる海にいくかえり千代の数とる浪の白珠 何年東奥勝 飛落穴門前 白浪簸色岸 青松媚遠天

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      平島夜雨* anchor.png Edit

      ふりいでてあまもぬる夜の平島にとまもる雨の音ぞさびしき 秋雨瀟湘夜 遷人奈恨何 唐崎興平島 夜雨不堪多

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      笠松暮雪* anchor.png Edit

      積もりても掃わぬ雪の光あれば夕ぞ遅き笠松の山 雪壓松如笠 思詩祇自苦 蘇公安在哉 髣髴呑天魚

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      亀島遊魚* anchor.png Edit

      いろくずも万代かけて亀島の風静かなる浪に住むらし 鯨鯢潜又躍 ?玄宅胚渾 似欲窮天悶 南冥間化鯤

       須佐年中行事

         ◆4月15日 松崎八幡宮春祭 三蔭山招魂祭
         ◆4月20日 鏡山神杜春祭
         ◆5月1日  高山黄帝祭
         ◆5月5日  天神祭(春祭〕
         ◆7月15日 祇園祭
         ◆7月16日 同
         ◆7月17日 弁天祭
         ◆7月18日 同
         ◆9月30日 松崎八幡宮秋祭
         ◆10月10日 鏡山神社秋祭
         ◆10月12日 笠松杜例祭

       須佐土産

         須佐名物としては
         一、須佐わかめ
              年産額   8,400円
         二、神山海苔
              年産額     385円
         三、鯣するめ
              年産額  2,400円
         四、飽
              年産額  5,400円
         五、鯛
              年産額  9,430円
         尤も年産額の多いものには、鰛いわしの4千円、鯖・鰤ぶりの各75百円等が
         あるが、特に優良なものとしては、前記のものなどであろう。なお
         六、須佐焼
              須佐焼があるが、その年産額は未詳みしょうである。
         以上の数字は鉄道開通前の、販路狭少の時のものであるから、今後は格段の
         増額をみることであろう。
          天然記念物としての須佐湾

      地殻発達の順序

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      一、地殻の成生* anchor.png Edit

      須佐の地質をここにあたって、地質や岩石についての極めて概略の序説を加えて おく。地球を一つの卵とすると、其の殻の部分にあたる部分を地殻という。 こ の地殻は初めから今日のような状態であったのではない。いやそれは地殻だけで はなく地球全体が、今日のものとは趣を異にしていて、成生の最初に於ては、 地球は恰も今日の太陽のように赫灼たる熱液から成っていたものであるが、漸次 其の熱を放散して、外側が次第に固まり薄い膜を生じて来た。 これが最初の地 殻で、現在の地殻の最下部に現れる花崗岩及び其の変成物である片麻岩の類がそ れである。

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      二、海陸の成生* anchor.png Edit

      地球がなお冷却をつづけてゆくと、内部に包まれた熱液が更に冷却して、其の容 積を減じてくる。そうなると焼けふくれた餅が冷えたり、 生の葡萄ぶどうが乾 ひからびたりする時に、外面に皺が出来てくるように、地殻も或は摺曲し或は断 裂して凹凸を生じて来る。 この凹所には、水をたたえて海洋となり、凸所は水 上に頭をもたげて陸地となり、ここに海陸の別が生じてくるのである。

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      三、水成岩* anchor.png Edit

      さて海陸が別れて来ると、陸上では風や雨や流水のために、岩石が次第に削磨せ られ侵蝕せられてくる。そして其の削磨侵蝕せられた産物は、 流水に送られて 海洋に流れ込む。海洋ではこれがだんだん静かな水底に沈んで積り積りてゆく中 に、上部のすばらしい圧力の影響などによって再び固結してくる。 これが水成 岩である。この水成岩は地殻の摺曲によって陸地となり、吾々の目にもつくよう になる。水成岩は幾回にも亘って出来るもので、 古いのもあれば新しいのもある。

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      四、火成岩* anchor.png Edit

      水成岩に対して火成岩というのがある。これは地球内部にあった熱液(岩漿)が、 温度の低い地殻中にふき出して熱を失って冷却したものである。

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      五、変成岩* anchor.png Edit

      又別に変成岩というのがある。これは水成岩又は火成岩が、一種の地質的動力と 高熱との為に、其の性質を変じたもので、 其の合分たる鉱物の種類と結晶質で あることとは火成岩に類し、其の層理を呈していることは水成岩に似ている。

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      六、化石* anchor.png Edit

      地殻の発達を研究するうえに最も大切なものは化石である。化石というのは、地 上に成育していた生物の遺骸等が、地層の中に保存せられているもののことであ る。 一体の生物は地殻と同じく其の初めから現存の種族が成育していたわけで はない。其の初めには劣等の種族のみが繁殖していたのであるが、 地殻の沿革 と外界の変遷とに促されて、次第に発達して今日のようなものになったのであ る。だから過去の生物界の状態は地殻の変遷とともに変遷して、 各層特有の化 石を蔵している。中には或る時代にのみ繁殖して次の時代には絶滅した生物 の 化石などもある。これは地層の年代を査定するに最も必要なものである。

      地質系統の大別

      上述の理由により、学者は化石の種類と岩石の配置とを研究して、地殻発達の時 代を大別して四代と し、更に分って数紀としている。これを地層について言う ときは代を界、紀を層と名づける。

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      一、太古代* anchor.png Edit

      最古の地層で正確な化石を発見しない。そこで岩石の種類によって左の二紀に分つ。 イ、片麻岩紀 ロ、結晶片岩紀

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      二、古生代* anchor.png Edit

      岩石は水成岩よりなり、生物の繁殖した証跡が明らかで数多の化石を蔵してい る。だが多くは劣等の種類で、植物は隠花植物を主とし、 動物は両棲類以下の ものである。本代の末期には種々の火山岩を噴出している。 本代には下の数紀がある。

         イ、カンブリア紀
         ロ、シルール紀
         ハ、デボン紀
         二、石炭紀
         ホ、二畳紀
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      三、中世代* anchor.png Edit

      中世代は次の三紀に分れている。

         イ、三畳紀
         ロ、ジュラ紀
         ハ、白亜紀

      前代の終わりは陸地の多かった時代だったのだ。本界の下部は主に浅海成堆積物 より成り、上部の白亜系のみが深海成である。生物界は前代と面目を一新し、 植物は裸子顕花植物を生じ、終わりに至って少し許りの被子顕花植物を見る。動 物界に至っては更に著しい変化があり、 蛇龍だとか魚龍だとか翼手龍だとかの 奇形の大怪物は、ユラ紀に全盛を極め、当地に化石の発見せられる海膽かいたん などは白亜紀に全盛を極めたものである。

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      四、新生代* anchor.png Edit

      新生代は

         イ、第三紀
         ロ、第四紀

      の二紀に分れている。第三紀は地殻が掉尾ちょうびの大変動をなした時期で、ア ルプスやヒマラヤのような世界の大山脈は、この時期に成生したものである。 生物界の面目も更に一新し、植物は被子植物となり、動物は哺乳動物が其の数を 増し、中にはマストドン大懶獣らいじゅうような巨大な動物もいた。 第四紀に は更にマンモスその他の怪獣・奇鳥が出たが、これと同時に人類の祖先があらわ れて、これ等の凶暴な野獣と争つていたということは、 石鏃せきぞくや石斧せ きふがこれ等の巨獣の骨と共に地中に埋存しているので椎察せられるところである。

      須佐湾付近の地質

      須佐湾付近の地質は第三紀層、沖積層及び斑糲岩、石英斑岩、?岩ひんがん等か らなっている。(佐藤博士による)

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      一、第三紀層* anchor.png Edit

      第三紀層は前記新生代の前半期に成生した地質である。以前古生代を第一紀、中 生代を第二紀と呼んでいたので、其の次にある故をもって三紀と呼ぶのである。 我が国で貝化石にとみ、又植物化石も少なくない。俗に天狗の爪というのは、こ の層中にある魚歯の化石である。第三紀の岩石には砂岩、礫岩、 凝灰岩等があ る。(百科大事典による)

      さて須佐に於ける第三紀層は神山の四囲を形成し、最下部に礫岩があり、最上部 に頁岩があり、中部に砂岩がある。(佐)

      イ、礫岩 豆大以上の削磨せられたる石片を礫といい、礫が粘土質、砂質、石灰質等の膠結 物によって固められて岩石になったものを礫岩という。 蛮岩といったり子持石 といったりもする。古生代、中生代、新生代の各地質時代を通じて地層中にこれ を産する。

      ロ、砂岩 豆大以下の削磨せられた石片を砂といい、其の凝固したものを砂岩という。砂岩 は普通層状帯状をなし、其の成層が分明である。常に粘板岩、泥灰岩、 石灰 岩、頁岩けつがん、石炭層等と互層し、太古紀以下各時代の主要な地層を構成し ている.(山崎氏等による)

      ハ、頁岩けつがん 岩石の破壊せられ且つ化学的変化を被った微細分を粘土といい、粘土の凝固した ものを粘板岩といい、其の凝固程度の不完全なものを板岩という。 泥板岩は頁 岩ともいう。(前項に書いた泥灰岩は多量の石灰分を有する泥板岩である)この頁 岩は層理が分明で、石灰岩、砂岩、泥灰岩並びに石炭層等と互層し、 太古、中 古、第三紀等の諸層に著しく発達している。(山、その他〕

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      二、ホルンフェルス* anchor.png Edit

      神山の斑糲岩に接している砂岩及び頁岩は接触変質をうけて、変質して「ホルン フェルス」となっている。所謂いわゆる「スレート」の大絶壁というのは実は 「ホルンフェルス」の大絶壁である。(佐)

      一体接触変質というのは、火成岩が水成岩を貫いて迸出へいしゅつした為に、水 成岩のこれに接触せる部分が其の高熱のために変質するに至ったものをいい、 大凡おおよそ次の三種に分かれる。

         a、岩石が炭化する場合 
         褐炭が黒炭になり、黒炭が無煙炭となって含炭の量を増加してくるようなも
         の。
         b、岩石が硬化して破璃はり質又は結晶質を帯びる場合 
         砂岩が破璃状を呈し、泥板岩、粘板岩等が堅い陶器状をなし、石灰岩が粒状
         結晶質を帯びて大理石となるようなもの。
         c、水と熱との作用によって変質を生ずる場合 
         地中から噴出する溶岩は種々の鑛物質を含有する多量の水を有しているの
         で、他の岩石の中に迸出するときは、此等の水は其の中に滲入し、 高温の
         作用と相俟って岩石に化学的分解を起こしてくるので、それが再び凝結し結
         晶するときは、其の組織成分は著しく以前のものとは、 異ってくるのであ
         る。(山)

      さて、「ホルンフェルス」は粘板岩が接触作用のために結晶質となったのである。

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      ホ、化石* anchor.png Edit

      化石としては、牡蠣ぼれい、海膽かいたん及ぴ木葉等があって、主として砂岩中 に埋蔵せられている。 蓋し第三紀中新統のもののようである。当地の第三紀層 中には褐炭層がある。(佐)

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      へ、斑糲岩はんれいがん* anchor.png Edit

      斑糲岩は火成岩の一種で、一名飛白岩とも称する。白色で光沢の著しくない斜長 石の中に、黒褐色の異剥石が飛白のように混在しているので、 同岩で最も分り やすい岩石である。尤も斜長石は異剥石の分解によって薄い緑色を呈することが ある。異剥石は新鮮なときには、金属に近い光

      沢を呈している。 斑糲岩は、分布が大でなく日本では千葉県、岐阜県、淡路島、山口県等が著名の 産地である。(栗田氏等による) 須佐に於ける斑糲岩は神山を構成するものを主とし、部分によって岩漿分体を生 じ、石英斑糲岩、紫蘇輝石斑糲岩、橄欖かんらん斑糲岩、 石英モンゾニー岩と 称すべき岩種となっている。蓋し餅盤として第三紀層中に迸入したものであろ う。尚、神山の項上付近には磁石性の特に顕著な部分がある。(佐)

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      ト、?岩ひんがん* anchor.png Edit

      斑状の火成岩で、緑色又は灰色味ある石基を有し、其の間に斜長石及び角閃石の 斑晶が散在しているが、細粒質のものはそれらの鉱物を肉眼で認め得ない。 ?岩は岩脉又は岩床を造り、本邦に於ては中古紀及び中古紀末葉、若しくは第三 紀の始めと想われる御坂層中に盛んに流出し、其の層間に層盤を造っている。 其の産出の多い地方は、福岡県、宮城県、宮崎県、山口県等である。 須佐に於ける?岩は岩脉或は岩床をなして、第三紀層を貫いている。蓋し神山の 斑糲岩の一異層をなすものであろう。(佐)

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      チ、石英斑岩* anchor.png Edit

      石英斑岩は火成岩である。花崗岩と其の成分を等しくするけれど、著しく其の組 織を異にし、緻密な石基中に石英長石並ぴに角閃石雲母の斑晶を散点している。 本邦に於いて其の噴出の多い地方は山陽・山陰の各地、飛騨、美濃、紀伊等であ る。(山) 須佐にも亦、これを見ることが出来る。?岩と同じで岩脉及び岩床をなしてい る。(佐)

      地殻の構造

      地殻は現出の状態を異にしている層状岩・水成岩の如きと塊状岩(火成岩の如き) とからなっているので、一部分には層状岩が重なって層をなし、 他の部分には 或はこれを貫き、或はこれを被うている塊状岩があって頗る錯雑な構造を成して いる。

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      一、地層の摺曲及び断層* anchor.png Edit

      地球が冷却して収縮するに伴い、これを包んでいる地殻は互いに横に圧しあっ て、地層に波のような起伏を起さしめたり、 亀裂を生じて左右の地層の位置を 変ぜしめたりする。前の場合を地層の摺曲といい、後の場合を断層という。

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      二、塊状岩の地殻構成状態* anchor.png Edit

      岩床、岩漿分体 塊状岩は噴出の状態によりて、岩株、餅盤、岩脈、岩床、岩鐘、岩台、溶岩流等 に区別せられる。 岩株とは不規則な大塊をなして、地盤の中に割り込んだものをいい、其の周辺か ら細い枝を射出して四囲の岩を貫くものを岩脈という。 餅盤とは地層の一部を持ち上げてレンズのように固まったものをいい、岩株と同 じく屡々岩脈を射出している。 岩床というのは地層の層面に沿うて薄くひろがったもので、つまり餅盤の平たい ものである。 岩鐘は岩腺の先端が地上に鐘状をなしているものをいい、それが平たくひろがっ ていれば岩台という。 又、溶岩流とは地表を流れた溶岩の固まったものである。 火成岩が水成岩中に噴出して其の周囲に鉱床を発生することがある。其の鉱床の 成生に種々の場合があるが、岩漿が冷却凝固する際、 其の中に含有せられた有 用鉱物が岩漿中から分体して、一ケ所に集合するときは岩漿分体という。

      地質学上特に注意すべきところ

      須佐湾内外の地質に対し、佐藤博士の地質学上特に注意すべき点として指示せら れたところは、

         一、神山の斑糲岩類は第三紀層中に餅盤をなしていること
         二、神山の斑糲岩類は岩漿分体が明らかであること
         三、神山の斑糲岩類は接触変質が明らかであること
         四、須佐湾の絶壁には岩脉が縦横に貫通していること
         五、須佐湾の絶壁には断層が明らかに現れていること
         六、須佐湾が幽邃ゆうすいなる湖水の如き風光を呈しているのは、地盤が沈降した結果であること

      等である。

  57. 地域のブログ​/益田市のブログ (2648d)
    • 2009-12-27 (日) 07:08:38 by ikamikuriya 差分

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    • 2009-12-27 (日) 07:08:19 by ikamikuriya 差分

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    • 2009-12-27 (日) 07:07:30 by ikamikuriya 差分

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    • 2009-12-27 (日) 06:59:51 by ikamikuriya 差分
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